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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第15回 恐怖の20枚シナリオ(Part 4)

 恐怖の20枚シナリオに、僕はついに、三本目にしてギブアップした。
 理由は、自分が思っているリアリティのある人物が、20枚シナリオでは、一本も書ききれないからである。全てがどこかで聞いたことのあるパターンの人間達……それに、登場人物に大勢の人数は書けない……何しろ20枚しかないのである。集団の個々を描くのは無理である。
 そして、書き始める前から、20枚後のエンドシーンをおおよそ予定しておかなければ、ならない。
 時々、偉い脚本家に、「僕はエンドマークから逆算してから、シナリオを書く」と豪語している方がいるが、そのエンドマークにたどり着くのはおそらく生身の心を持った登場人間である。その人はどういう心境で、その、あらかじめ決められたエンドマークにたどり着かなければならないのか。人間の感情は生き物である。大作家先生が無理やり仕掛けたエンドマークにたどり着く前に、登場人物の感情は、不感症になっているか、いやでいやでたまらないか、それこそパターン通りの人物像に、大作家先生の手で、無理やり変身させられてしまっているだろう。
 さらに伏線……作品の前半では、何だかよく分からなかった場面が、後半になって、意味を持ってくる……の設定がほとんど不可能である。20枚シナリオで、伏線など書いたら、伏線だけで20枚が終わってしまう。
 つまり、僕には、20枚シナリオは、誰でも分かる、パターンの人間がただ動き回っている出来の悪いショートショートか、コントにしかならないのである。
 ショートショートにも傑作はあるし、コントにも良いものがある。
 ショートショートの天才と云われる星新一氏の名を知らないわけではない。
 だが、星新一氏だって、20枚で書けと言われれば困ってしまうだろうし、ショートショートや、コントが、優れたシナリオのように、人間とはこういうものだ……という大ざっぱなつかみ方はできても、人間の細かな感情の揺らめきを描くのは、とても難しいと思うのである。
 そこで、僕は、現実に起こったことをもとにして、試しに、何もストーリーのない、何も起こらないシナリオらしきものを書いてみた。いわば、僕の20枚シナリオ3.5作目である。
 たまたま、「シナリオ研究所」の生徒で、めったにいない、若くて、とても髪の長い女性(僕より勿論、年上である)が、ある日。突然髪を切ってきたのである。
 あまりに、いきなりのショートカットの出現だったから、みんな、驚き理由を聞いた。女性の答は「気分を変えたかったし、長い髪って手入れがたいへんでしょう? 面倒くさくなっちゃって……」
 本来、この事実を素材にシナリオを書くなら、女性の心理状態が、テーマである。誰が見ても自慢に思える長く美しい髪を切ったのである。それなりのドラマがあったに違いない。
 だが、僕は思った。お付き合いしたこともない、それこそめったに口も利いた事もない女性の心情なんて書けるわけがない。
 そこで、その女性とは、全く関係のない、おまけに女性に全く縁のなさそうな男の研究生を二人登場させた。
 二人は、暇である。どちらかの男の四畳半の部屋で、ごろごろ寝そべってだべっている。
 話題は特になにもないから、たまたま、「研究所」ですれちがった、髪を切った女性のことを話すことにする。
 女性が髪を切るという行為には、余程の決断がいる。「失恋」が原因か……あんな美人を振るやつは許せん……それとも恋人が死んでしまって、その未練を吹っ切るために髪を切ったのか……二人の男は、ろくに口をきいたこともない女性について、延々と彼らの思った妄想を語り始めるのである。
 そして、彼女の日常生活(朝は何時に起き……シャワーは一日何回……? 寝るときはパジャマか熊のプーサン模様のパジャマか、それとも大人っぽいネグリジェか)まで想像し、勝手に妄想した彼女のために、怒り、笑い、泣き、喜び、まるで、彼女の恋人か、保護者のように語り合う。
 僕は、この二人の会話だけに20枚はおろか60枚をついやし、それでも終わらないから、何のかかわりもない女性について、60枚以上もしゃべり続ける自分たちに我に返った一人が……「俺達って、暇だなあ……あの娘とは何の関係もないのに……」もうひとりも我に返り、「ああ……暇だなあア……俺達……」。
 二人は、深いため息を付く……。
 で、やっとエンドマークをつけた。
 これを読み聞いた、「研究所」の生徒達は、爆笑、失笑の渦だった。
 先生は、「ちょっと長いが、こういうシナリオもあっていいでしょう」という意見だった。
 書いた本人の僕としては、こんな暇つぶしのシナリオはあってはならないものだった。
 「研究生」の中で、一人だけ、感情を押し殺してうつむいていた女性がいた。素材になった髪を切った女性本人だった。
 僕は、彼女に謝った。
 「すいません。書くことがなかったもので、そこにたまたま、あなたが、髪を切ってきたもので……」。……注意……年上の女性にかかわらず、女性に対しては、よほど親密な関係にならないかぎりは「あなた」という呼び方をするのが無難である……と、僕は思う。
 本来なら、シナリオのネタにされて気分を悪くしそうなものだが、僕が、速攻で謝ったせいか、その女性は苦笑いをして、
 「本当に、気まぐれで、手入れが面倒くさいから髪を切ったの……」と言ってくれた。
 それが、事実かどうかは、知らない。僕も知ろうとも思わない。
 けれど、それがきっかけで、二歳年上の女性の友人が出来たことは確かである。「研究所」内では似合いのカップルだと噂されたこともあったらしいが、あくまで、僕とその女性は友人同士である。「研究所」を卒業してからも友人同士だったし、数十年経った今も、年賀状のやり取りはある。
 僕にとって、20枚シナリオをやってよかったことは、その女性と知りあいになったことぐらいである。
 本来のシナリオ修業には、20枚シナリオは役に立たなかった。
 僕は、半世紀以上も続いている20枚シナリオ修業法の悪口を言う気もないし、喧嘩を売る気もない。その方法が、今も生き延びているには、それなりの利点が、あるはずである。
 ただ、僕には、向いていなかったと言うだけである。そこいらのことを、次回はもう少しお話して、20枚シナリオの話題は、終わらそうと思う。

    つづく


●昨日の私(近況報告)

 全くいやになるが、また、お葬式である。
 友人の遺影を拝み、不謹慎なようだが、妙なことを考えた。
 どうして、葬式の写真は、お亡くなりになったころの近影が多いのだろう。
 ほとんどの人が、歳をとって亡くなるから、あたりまえのことだがどこかしら老けて、疲れた顔をしている。
 その人が、はつらつと動き回っていたころは、もっと若々しい元気な顔をしていたはずである。
 思い出の中に残る故人は、最盛期の時の姿であってほしいと思うのは、僕だけだろうか。僕だって、二十代の頃は、今のような歯抜け(治療中である)のじいさんでは、なかったはずである。
 葬式で、特に思うのは、長く会っていなかった女性の場合である。
 僕が会っていたのは、こんなおばあさんでは、なかったはずである。
 百年の恋が、お葬式でガラガラ崩れていくのはたまらない。
 葬式の写真は、少なくとも元気はつらつの時期のものにするべきだ。
 ……と、言ったら、家族から猛反対がでた。
 本人はいいかも知れないが、残された家族、友人、知人は、写真の本人より当然ながら年寄りで、葬式騒ぎでお疲れの顔ばかりである。
 故人の写真と、バランスがとれないというのである。
 なるほど、お葬式は、本人のためにだけするのではない。残された者のためのものでもある。
 でもなあ……僕が、今死んだら、万が一、弔問に来てくれるかもしれない昔の女性友達のために、二十歳ぐらい昔の写真を飾って欲しいと思うのだ。もっとも、誰も弔問に来てくれない可能性の方が、強いかもしれないが……。
 

■第16回へ続く

(05.09.07)

 
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