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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第147回 『ポケモン』何もしてないシリーズ構成

 先日、古くなって今は使っていないパソコンに入っているデータを整理していたら、初期の『ポケモン』のシリーズ構成案が出てきた。
 記憶では、『ポケモン』での僕は、それまでシリーズ構成してきた作品で僕がやってきたような事はなにひとつやっていない……つまり、いてもいなくてもいいようなシリーズ構成だったような気がしていたが、一応、脚本会議に提出して、監督やアニメ制作に直接関わる制作会社や放送局のプロデューサーの方たちに検討してもらうためのシリーズ構成文書は書いていたようである。
 ただし、それは極めて簡単なメモのようなもので「○話で、××と出会うエピソードを入れる」程度しか書いていない。
 例えば、5話については、「サトシが、ニビシティのポケモンジムに行き、タケシと出会い、タケシはサトシとともに旅をする事になる。出会うポケモンはイワーク」
 そのくらいしか書いていない。
 これが、シリーズ構成案と呼べるかどうか極めて疑問だが、脚本家の方たちは、そんな簡単なものから、それぞれの話数のプロットを作り、監督やプロデューサーの意見を取り入れつつ脚本化し、さらに細部の直しで2稿、3稿を書き、決定稿にしてくれた。
 ところで、第5話は、ムノーという名の石集めが趣味の老人が登場する回として、印象に残っている。
 この老人の名は、つげ義春氏原作で竹中直人氏が初監督して評価も高かった映画「無能の人」をもじったものだが、これは僕が考えたものではなく、脚本家の方が、脚本の初稿から書いてあったものである。
 僕がシリーズ構成した作品にこの種のパロディのようなものがあると、僕がそのアイディアを出したように言われる事がよくあるが、僕は、他の人の書いた脚本のこの種のパロディには、たまに止めてくれとお願いする事はあっても、自分から書き加えるような事はしない。
 分かる人だけに分かってもらう楽屋落ちはあってもいいとは思うが、それだけが狙いでは困る……つまり、元ネタが分からない人にとっては意味が分からないシーンや台詞は余計だと思っている。
 元ネタを知らない人にとっても、そのシーンや台詞が楽しめ、作品自体にとって必要なものでなければ意味がない。
 あくまで、その作品のプラスαのお楽しみである。
 最近の映画でいえば、ディズニー映画の「魔法にかけられて」が例にあげられるだろう。
 ディズニー映画の自虐的パロディが満載だが、ディズニーアニメやディズニーランドを知らない人が見ても、充分面白い映画になっていると思う。
 いつものディズニー作品を知っていれば、より面白いかもしれないという感じだ。
 それはあくまでおまけのお楽しみである。
 ただし、歴史に残るような映画の名シーンや名セリフは、元の作品を知らなくても、それ独自で輝いて残っている場合が多い。
 そんなシーンやセリフは、元の作品と違う状況で使うと、ユーモラスな場合が多い。
 常識的に知っていると思われる事も、変形して使うと面白い効果が出る。
 そんな類のものが、僕が関わっている作品に、より一層おかしさ楽しさを加えるならば、積極的に脚本に書き加えたい。
 ほとんど余談だが、近年の僕がシリーズ構成したロボットアニメで、ロボットを作動させる時、主人公が叫ぶ決まり文句があり、それを主人公が照れくさいのか何だか知らないが言いにくそうにしていると、「合身GO!」や「ピピルマピピルマ」という決まり文句に変えてもいいと整備士から言われ、主人公がげんなりするシーンがあった。
 その決まり文句は、僕がシリーズ構成した別の作品『ゴーショーグン』と『ミンキーモモ』の決まり文句である。しかし「ピピルマピピルマ」では中途半端で、「ピピルマピピルマプリリンパ」で、一区切りなのだ。このシーンは、その作品のシリーズ構成が僕で、制作会社が同じだからという理由で、監督か絵コンテの人が入れたのだろうが、当の僕は、脚本にそんなシーンは書いていないし、ある事すら知らなかった。
 知っていたら、反対するだろう。
 僕は、『ゴーショーグン』『ミンキーモモ』が、今時の視聴者、いやアニメファンに限定したとしても、その人たちの常識になるほど広まっているアニメとは思っていない。つまり、そのシーンは本当に少数の限られた人に向けられた楽屋落ちシーンなのである。
 TVのクイズ番組の超難問として、「『ミンキーモモ』の決まり文句(変身の呪文)はなにか?」という問題が出たとは聞いた事があるが、一般に知られていないからこその超難問である。
 楽屋落ちだけを目的にしたシーンは、余計である。
 それが、決まり文句など言いたくない主人公の性格を表現したいと考えて、絵コンテで付け加えたシーンだとしても、もともとの設定からして、主人公をそんな性格にはしていない。
 だから、そんなシーンがあると、人物像が不明瞭になるだけである。
 分かる人だけに理解できる楽屋落ちは、作者の自己満足に終わり、作品自体を意味不明にしてしまう事もあるのだ。
 しかし、その作品の場合、スケジュールがタイトで、できてしまったシーンはどうしようもなかった。
 それにしても「ピピルマ、ピピルマ」では訳が分からないから、アフレコで「ピピルマピピルマプリリンパ」に変えていただいた。
 そんな事をしてもあまり意味はないのだが、楽屋落ちにもならない悲惨よりましである。
 余談が長すぎた。
 今は『ポケモン』についての話である。
 『ポケモン』5話の場合、そのエピソードに、このムノーというおじいさんは必要な存在だった。
 必要がなければ、僕が言わなくても、1本の脚本に1ヶ月、週1回として4回は脚本会議をする『ポケモン』である。監督やプロデューサーの方たちから、当然、その指摘があるはずだ。
 だが、ムノーという名前が、5話の面白さにプラスαになったかどうかは、僕には分からない。
 「無能の人」のような一種マニアックな映画が、アニメの『ポケモン』を見る人達にとってよく知られている作品かどうかは微妙だからである。
 だからといって、否定する材料にはならない。
 5話のエピソードに必要不可欠な、サトシの旅の仲間にタケシというキャラクターが加わるという主題は、充分描かれているからだ。
 5話にムノーという名の人物を出してくるのは、その脚本家の方、独特の個性である。
 『ポケモン』全体からみれば、それぞれの脚本家の方たちならではの個性が出る事は、それが『ポケモン』というアニメの一つのパターン内に収まっていながらも、『ポケモン』が、いろいろなバラエティのある顔を見せてくれる事にもなる。
 もっとも、脚本家の方のプロットができ上がる前に、いつもの癖で、僕には僕なりの5話――大筋は同じだが展開の少し違うものができていて、それには、ムノーという人物は、出てこない。
 そのエピソードは、小説「ポケットモンスター」の2部に書いた。
 で、僕が今になってアニメ版の5話を思い出すと、なぜか、タケシが旅の仲間に加わった事よりも、ムノーという人物が登場した事の方が、強く印象に残っている。
 それも、アニメに登場した人物のキャラクターの顔ではなく、竹中直人氏の顔が一緒に浮かんでくる。
 竹中直人氏がムノーの声を演じたわけではない。
 実写のコメディドラマで、僕の脚本の実質的主人公格の登場人物を演じていただいた事があり、脚本の役を、僕の度肝を抜く怪演で面白くしてくださったその時の強烈な印象が、竹中直人氏=「無能の人」=『ポケモン』のムノーにつながってしまうのかもしれない。
 後に、竹中氏は『ポケモン』の劇場版『結晶塔の帝王』に出演するのだが、それを監督から聞かされた時、いささかビビったのを今でも思い出す。
「あの竹中さん、わっ!?」ってなものである。
 あの怪優の声が生きる台詞をどう書いたらいいのか、困るというのでもなく、悩むというのでもなく、ともかく、正にビビったという表現が一番近かった。
 話題が、あっちこっちに飛んで申し訳ないが、つまり、初期のアニメ版『ポケモン』で、僕は、シリーズ構成として各話の簡単なメモを書いて、ちらっと感想を言っただけである。
 全体を通しても、他の方の『ポケモン』脚本に手を入れて書いたのは、後にも先に1度だった。
 それも、警官が出てくる回で、1シーン、男のお巡りさんが脚本に書かれていたので、――設定としては『ポケモン』の世界に出てくるお巡りさんは、どこの町も、みんなジュンサーという同じ名前の女性にした――それを、ジュンサーという名前にして、セリフを女性らしく変えただけである。
 その量も、脚本家の方にわざわざ書き直してもらうのも手間なので、脚本家の方の了解を電話で得て書いたのは、原稿用紙にして1枚程度にすぎない。
 「好きに書いてください」と、お任せした脚本家の方の他は、電話をかけまくり、何稿も書き直させ、その挙句に僕が手を入れた脚本が多かった、それまでのシリーズ構成した作品とは大違いだ。
 で、やがて、『ポケモン』の脚本メンバーが一回りして、僕が書く順番が回ってきた。
 『ポケモン』の9話だった。
 構成案のメモ風のものには、「サトシ達が出会う、『ポケモン』のゲームにはないオリジナルエピソード」程度しか書いていない。
 そのエピソードに登場するポケモンは、脚本会議で他の脚本家の方たちの書くポケモンとダブらないように決めていた。
 動物の骸骨を被ったようなカラカラというポケモンで、ゲームでは、こどく(孤独)ポケモンの一種だと分類されていた。
 すでに、アニメ版『ポケモン』の基本的なパターンは固まりかかっていたので、それをどう変えて、異端児のような『ポケモン』脚本にするか……。
 当時は内緒にしていたが、実はプロットを3本用意した。
 そして、その中で、全体の構成はそれまでの脚本に似ているが、内容は一番ぶっ飛んでいるプロットを脚本会議に出した。
 それが「ポケモンひっしょうマニュアル」というエピソードだ。
 で、この話は次回に続くのだが、このコラムを読んでくださっている脚本家の方から、「脚本会議」という呼び方がピンとこないというご意見があった。
 業界では、普通、「脚本会議」とは呼ばず、「本読み」と呼ぶ。
 確かにそうなのかもしれないが、僕にとっての「本読み」は、監督や脚本家の方たちと、喫茶店の片隅や僕の若い時には飲み屋で、まあ一応脚本は読むのだが、実は脚本の話半分、世間話半分といった感じで、とりとめもなく話し合う事をイメージしてしまうのだ。
 脚本の話と世間話の間を、会話が行ったり来たりするのである。
 そして、その中で、ぽつんとアイディアが浮かんでくるときもある。
 そんな感じの打ち合わせが僕にとっての「本読み」で、『ポケモン』の「本読み」はそうではなかった。
 会議室にプロデューサー、監督、脚本家が集まり、テーマはあくまで『ポケモン』の脚本についてであり、『ポケモン』に関係のない冗談や世間話はほとんど出る余地はなかった気がする。
 ともかく、脚本に対してみんな真面目だ。
 僕の思う「本読み」など、遊んでいるとしか見えず、怒られるかもしれない。
 だから、どうしても、不真面目な僕に限れば、ポケモンの「本読み」を「脚本会議」と呼びたくなってしまうのである。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 このところ、オリジナリティについての話が続いている。
 この話のもとは、監督の気持ちや絵コンテで変えられないような、オリジナリティのある脚本を書こうという事から始まっている。
 人は誰でも、それぞれのオリジナリティを持っている。
 だが、それを他の人に表現(アッピール)したがるタイプと、そうでないタイプがいる。
 創作に関わる人は、ほとんどが表現したがるタイプの人だ。
 自己顕示欲の強い人なのである。
 だが、1人の力だけで表現できる創作物など、ほとんどない。
 絵画や文章のように、1人で表現できるものがあると言われる方もいるだろうが、それを見たり読んだりしてくれる相手がいなければ、表現した事にはならない。
 もっとも、それを言い出すと、表現という行為はなんなのかというところまで話が広がっていきそうで、収拾がつかなくなる。
 とりあえず、このコラムはアニメ関係のサイトに載っているから、話をアニメに絞る。
 アニメと言っても様々だが、話を単純化するためにTVで放映されているような普通のストーリーアニメを考える。
 そこまで絞っても、視聴率だの、スポンサーだの、2次使用だの、関連グッズだの、そのアニメを制作して黒字になるか赤字になるかは、そのアニメの命運を決める事なのだが、それも話をややこしくするので、もっと単純に考える。
 アニメを儲けの対象にしか考えていないような制作者も除外して考える。
 そうすると、ようやく、アニメは、いまさらいうまでもなく、自分を表現したがる人たちの共同作業での創作物という事になる気がする。
 そこではプロデューサーも表現者の一員である。
 プロデューサーが、自分の気に入った素材や才能を見つけ、アニメを作るために必要な制作費を集めてくるのも、自分がプロデュースした作品そのものが、プロデューサー自身を表現した事になるからだ。
 そのプロデューサーがいなければ、このアニメ作品は生まれなかっただろうという評価が、そのプロデューサーの何かを表現したいという自己顕示欲を満たしてくれる。
 アニメは、それぞれの制作パートにいる人の自分自身を表現したい気持ちの集大成である。
 優れた作品を作り出すプロデューサーや監督には、それぞれ優れた人材が集まってくる。
 それは、金銭の問題ではなく(実際は大きな問題だが……)それぞれの制作の場で自分の表現したい事――自分の能力を充分に発揮できるからである。
 優れたプロデューサーや監督は、制作過程の各パートの重要性をよく知っている。
 で、ここは、脚本家について語るコラムである。
 脚本家の立場から見てみよう。
 脚本はアニメ制作の入口である。ここでは原作のあるなしは、考えない事にする。
 本当は、脚本の前に、企画を通すという大きな山があるのだが、脚本はアニメ実制作という視点から見れば、入口に位置すると言っていい。
 入口から出口の作品完成までは遠い。
 実際、アニメ作品で、脚本家が表現したいと思っている自分のオリジナリティが、そのアニメが完成するまで残るという事は難しい。
 なぜなら、監督、絵コンテ、作画関係その他、様々な人の間を通り、声優、音響監督、さらにその他――みんな、それぞれの場で自分の表現したい事のある人たちがずらりと並んでいるからである。
 その人たちには、その人たちのオリジナリティがある。
 脚本家が頭で考えていた理想の完成品など、粉々になって当然だろう。
 アニメの場合、脚本が決定稿になった後、それにすぐ気づかされるのは絵コンテである。
 仮に脚本どおりに絵コンテが描かれたとしても、それは脚本家の考えていたものとは確実に違うものになる。
 監督が脚本を読んだ解釈に加え、絵コンテを描く人の表現も加わるからである。
 一番、分かりやすいのはセリフだ。
 絵コンテで、セリフをしゃべる秒数が決まる。
 例えば「あなたが好き」というセリフを2秒で言うか、4秒かけて言うかは、絵コンテで決まる。
 まあ、10秒もかける人はいないだろうが……。
 ともかく、同じセリフでも、まるでニュアンスの違うものになる。
 当然、絵コンテは、実写で言う撮影を兼ねるから、画面に何が写っているか、どうカッティング(画面の切りかえ)するかも、決まってしまう。
 映像の基本といえるモンタージュがどう使われるかも絵コンテ次第だ。
 脚本どおりの絵コンテといわれても、この有様である。
 プロデューサーや監督が脚本家と、なんだかんだと意見を交わし脚本を直し、やっと決定稿にしても、思いどおりにはできあがらないのである。
 そんなアニメで、脚本家のオリジナリティを云々するのは、意味のない気がしないだろうか?
 それでも、脚本家自身のオリジナリティは、なにより大切だと僕は思う。
 なぜだろう……?


   つづく
 


■第148回へ続く

(08.05.07)

 
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