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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第145回 『ポケモン』打ち入りパーティで……

 『ポケモン』の番組開始を祝うパーティ(打ち入りパーティともいう)で印象的だったのは、ロケット団のムサシ、コジロウ、ニャースの声を担当する声優さんたちが、とても張り切っていた事だった。
 ゲームにもロケット団は出てくるが、ロケット団という名前だけの単なる悪役としての存在だった。
 ゲームに出てくるロケット団は、登場するたびに、それが同一人物かどうかすらも分からないように描かれている。
 もちろん、2人組の男女でニャースというポケモンと一緒であるという設定も、ゲームにはない。
 しかし、アニメで常連として出てくるムサシ、コジロウ、ニャースは、それぞれユニークな性格を持っている、アニメ版独自のオリジナルキャラクターである。
 主人公グループのサトシやカスミやタケシ、ピカチュウは、アニメ版『ポケモン』のメインに登場する存在であるだけに、いろいろ性格をひねっても、所詮、アニメ版『ポケモン』の主たる視聴者である子供の共感を得るように、いわゆる分かりやすいステロタイプなキャラクターにならざるをえない。
 主人公たちを、ユニークな性格にして、それを作品の特徴にする方法もあるが、視聴者のメインが子供である事を考えると、主人公たちは単純明快の方がいい。
 悪役やライバルも、幼少の視聴者にとっては、単純で分かりやすい単なる悪役やライバルに見えても構わない。
 だが、それだけだと、完全に幼児向けの作品になってしまう。
 青少年にとっては、幼稚なアニメに見えるだろうし、幼少の子供と一緒に見る大人にとっては、育児の一環としてしょうがなく見るアニメという事になってしまう。
 それでは、誰が見ても面白いというアニメにはならない。
 子供向けに作られて見えても、どこか青年や大人の鑑賞に耐えられるものにしたい。
 優れた絵本や童話が大人にも満足を与えるように、子供向けコミックやアニメも、本来そうあるべきものだと思っている。
 実際、僕自身も、アニメを子供向けと限定して脚本を書いた事はない。
 大人が見ても、じゅうぶん楽しめる作品を目指している。
 なにより、自分の感性が、面白がれる、楽しめる、または頭を抱えて考え込んでしまうような、自分にとって解決困難な内容を含んだ脚本でなければ書きたいとは思わない。
 そして、そんな僕は今はもういい年齢をしたおじさんだから、そんなおじさんが見て、時間の無駄だと感じるようなアニメの脚本は書きたくないのである。
 したがって、一見お子様相手のような『まんが世界昔ばなし』や『まんがはじめて物語』のシリーズでも、僕の書く脚本は、大人に馬鹿にされない内容を心がけたし、大人の知的興味を刺激するものを書いてきたつもりだ。
 だから『ポケモン』をアニメ脚本にする時にも、最初に考えたのは、幼少の子供から大人まで、それなりの年頃で楽しめるものにするにはどうするかだった。
 主人公の精神的な成長を様々なポケモンとの出会いで描くという方法もあるだろうが、放映が1年半では、視聴者の幼少の子供たちが、主人公の成長についていけなくなる。
 繰り返しになるが、『ポケモン』の放映予定の最低期間は1年半だったのである。
 余談かもしれないが、10年以上も『ポケモン』が続いているのは、僕には凄い事だと思える。
 アニメ版『ポケモン』で当初僕が持とうとしていた、大人を面白がらせ考えさせる要素は次第に薄れているし、はじめは幼少だった子供の視聴者もどんどん成長して『ポケモン』離れをしているはずである。
 入れ替わりに『ポケモン』を面白がる子供の数も少子化で少なくなっているはずなのに、『ポケモン』はゲームにしろTVアニメにしろ映画にしろ、人気の衰える気配がない。
 おそらく『ポケモン』に代わりうるアニメが出てこない事と、ゲームとしての「ポケモン」が飽きられないように考えるゲームメーカーと、『サザエさん』『アンパンマン』『ドラえもん』のように視聴者がアニメを見る事が習慣化するような作品にしたアニメ制作者の方たちの二人三脚の努力、作品の出来以外にも様々になされる営業的な手段が、今の『ポケモン』を支えているのだろう。それを実際にやってのけているのは、見事だと思う。
 当初は『ポケモン』の二番煎じのような作品――だからといって作品として劣っているというわけではない――も出ていたが、もはや、『ポケモン』を真似る作品は現れないだろう。
 今のアニメは、かつてあった作品を下敷きにした二番煎じ的作品の花盛りである。
 だが、『ポケモン』は、二番煎じが作られる領域すら突き抜けてしまった。
 『ポケモン』は、『ポケモン』のような作品(?)の頂点を走り続けて、代用品は不要である。
 多分、ゲームにしろ、アニメにしろ、作った人たちがこの世からいなくなっても、『ポケモン』は続くだろうと思われる。
 『ポケモン』に関わった方々は、自分から辞める気にならない限り、『ポケモン』というプロジェクトに永久就職したようなものである。
 しかも、収入にしても、僕の知る限り、この業界では頭抜けていいと思う。
 生きている間は、いろいろな事をやってみたくて、自由業になってしまった僕――以前にも書いたが、僕は別に脚本家になりたかったわけではない。だからといって他に特になりたい職業があったわけでもない。ともかく、いろいろな事ができればよかったのである、そうしたら、たまたま、高校を卒業した時に、脚本というものに出会い、何の気なしに脚本を書いたら、それが評価され映像化され、生活ができるようになって、今の年齢になってしまった――、そんな僕には、ひとつの事に永久就職するなどという事は、気の遠くなるような苦痛だが、常識的に考えれば、そんな感覚を持つ僕が変なのであって、一つの作品に関わり続けて一生を終わるという自分にはとてもできない生き方を、誰が見てもおじさんであり、気持ちだけは若いつもりのこの歳になって、いまさらのように僕は尊敬している。
 そんなめったにない作品に、関わりを持つ機会を与えてくれた方たちに、僕はとても感謝している。
 『ポケモン』のように、よくも悪くも巨大になる作品に関わる事も、僕にとってはいろいろやりたい事の一つには違いなかったからだ。
 さて話を戻すが、放映期間が1年半として、それをエキサイティングにやり通す方法としては、主人公たちが、目的を達するまでの間、次々と新たな強敵に出会うという方法もある。
 現れる敵がどんどん強くなるエスカレート作法(?)で、対戦が基本の『ポケモン』のゲームもこの趣向で作られている。
 だが、この作法だと、強い敵に対応するために、主人公たちが、より自分たちの力が強くなる事だけに気をとられ、強い事に価値があるというテーマになりがちである。
 確かに、現れる強敵と対戦するたびに主人公が強くなっていく話は、人気があるしエキサイティングでもあろうが、強さに価値を持たせるような作品は、子供にとって、いや、大人にとってもあまりいい影響を及ぼすとは思えない。
 権力欲や金銭欲に妙な妄想を持ち、人生に対して妙な価値観を持つようになる気がする。
 人生に対して権力や地位や学歴、金銭力で、勝ち組、負け組という言い方が平然と言葉に出される今の時代は、たとえそれが流行語だとしても、変な時代である。
 教育的でない、道徳的でないなどと、おおげさな言い方はしたくないが、『ポケモン』のアニメを、勝者になる事に人生の価値があるというような雰囲気の漂うアニメにはしたくなかった。
 となれば、『ポケモン』のエピソードの中に、主人公の本来の目的である、ポケモンを戦わせるポケモン使い(?)の最高位であるポケモンマスターになるという事以外に、何か別の価値観を入れる事が必要となる。
 それは、シリーズ構成や脚本家の役目である。
 そして、もうひとつ、いまさらいうまでもなく重要なのは、悪役であるロケット団の存在だった。
 アニメ版『ポケモン』の場合、悪役のキャラクターはオリジナルだから、どんなふうにも作る事ができる。
 しかも、悪役ないしは主人公のライバルの魅力次第で、作品全体の面白さが変わっていく。
 面白い作品には、必ず、魅力的な悪役やライバルが存在している。
 つまり、作品が面白くなるかつまらなくなるかは、その作品の主人公の魅力というより、悪役やライバルの存在がいかに魅力的かにかかっている。
 よくロケット団は『タイムボカン』シリーズの三悪トリオを意識して作られたといわれる。企画の当初は、プロデューサーの方たちに分かりやすく説明するために『タイムボカン』の三悪トリオを例に出したかもしれないが、僕がシリーズ構成になってからのロケット団は、いささか意味合いが違う。
 『タイムボカン』の三悪トリオは、ドジな悪役で失敗しては悪の親玉からお仕置きを受けぼやき続ける、いわゆる負け組の道化だが、ロケット団は、同じようにドジで間抜けで負け続けてはいても、自己の存在に自信を持っていて、決して自分を負け組だとは思っていない。
 彼らには彼らなりのポリシーがあり、それがいささか普通の常識とずれていても、あくまで自分の存在感を主張する。
 『ポケモン』というアニメの中では、悪役が必要であり、悪役である自分たちがいなければ『ポケモン』というアニメは成立しないと自覚して登場する。
 ただの2、3回で消えてしまう、その場限りの悪役ではないのである。
 主人公たちが分かりやすいステロタイプなら、悪役のロケット団は、個性豊かで存在感のあるキャラクターでなければならない。
 視聴者がロケット団が登場する時、「待ってました!」と声のかかるような存在でなければならない
 ロケット団の存在が、個性的であればあるほど、目立てば目立つほど、アニメ版の『ポケモン』は、普通のアニメとは違うユニークなものになる。
 つまり、大人の鑑賞に耐えるドジな悪役「ロケット団」の存在が、お子様向きアニメから大人も楽しめるファミリーアニメへと、『ポケモン』を成り立たせた要因だったと僕は思うのだ。
 「私たち次第でアニメの『ポケモン』が成功するか、失敗に終わるかが決まる」
 ロケット団の声を演じる3人は、打ち入りのパーティが開かれた頃には、それを十分自覚していたのだろう。
 声優として演技者として、やりがいのある役だと思ってくれたようだった。
 ロケット団の声の林原めぐみさんたち3人は、わざわざそろって、僕の前にやってきてこう言ってくれた。
 「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情け、世界の破壊を防ぐため世界の平和を守るため、愛と真実の悪を貫く、ラブリー・チャーミーな敵役、ムサシ! コジロウ! 銀河をかけるロケット団の2人には、ホワイトホール、白い明日が待ってるぜ! にゃーんてな」
 ロケット団がサトシたちの前に登場する時の口上だが、この口上を、
 「この口上、私達が出る時には、毎回、一言も変えずに絶対やって、流行らせます」
 と言ってくれたのである。
 つまり、ロケット団が出る時は、脚本に必ずこの口上を書いておけ……という声優さん側からの要求であり、僕自身も、この口上はかなり考えて作ったものだけに、とてもうれしかった。
 さらに、この口上、映像の方も凝ってくれて、毎回、違うポーズを作ってくれた。
 ロケット団の声については、基本的に3人にお任せで、監督も含め、誰も3人に苦情を言わなかった。
 前に書いたが「林原さん、台本通りには台詞をしゃべらないんだよね」と僕に言ったプロデューサーがいたが、それは不満ではなく、むしろ楽しそうだった。
 ロケット団の声3人のやる気も手伝って、ロケット団は僕の予想した以上に人気が出た。
 子供にはピカチュウが一番人気だったが、視聴者の年齢が上がると、ロケット団に人気が移るようだった。
 ロケット団があまり活躍しないエピソードには、視聴者からもっとロケット団を出せという声が寄せられた事もあった。
 シリーズの各回のエピソードをパターン化するのは、僕としてはあまり好きではないのだが、お約束のように各話のラストにロケット団が主役たちと絡み、戦って負け「やな感じー!」で消えていくパターンは、他の脚本家の方たちにとっても書きやすかったようで、あっという間にTV版『ポケモン』のストーリーの定番になった。
 幸いと言っていいかどうかは分からないが、ロケット団が悪役だったからか、いつも苦情を言う、御前様とあだ名される一番発言力のあるプロデューサーから重要視されなかったのだろう。主役メンバーに対してはいろいろ注文が出たが、ロケット団に対しての意見はほとんど僕の耳には届かなかった。
 さらに、このパーティで嬉しかったのは、ゲームを作った人たちと会えた事だった。
 アニメ版『ポケモン』について、様々な物事の最終決定は、事実上、御前会議における御前様が決める形になっていた。
 一見、会議の形をとっていたが、結果は発言力の強い御前様の意見が通ってしまうのだ。
 時として僕と意見が違う事があったのは当然だが、何より違うのは『ポケモン』というアニメに対するそれぞれの立場だった。
 僕はフリーの雇われシリーズ構成で、できるだけ監督の指示を尊重していた。
 『ポケモン』を良質の作品にしたい気持ちは同じでも、御前様には、アニメ制作の元締めである大出版社の社員であり、その立場から、これは僕の想像にすぎないかもしれないが、社員として自分の会社での存在を大きくする必要があったと思う。
 まして、ご自分が苦労して取ってきた『ポケモン』のアニメ化権である。
 その苦労は、ご自身が書いた『ポケモン』についての本で、かなり詳しく描かれている。
 ご自身の会社に対する責任としても、ヒットどころか大ヒットさせたい。
 そして、ご自身は子供向けコミック雑誌の編集などで大ヒットを飛ばし、ヒットさせる確固たる方法論を持っていた。
 申し訳ないが、僕はヒットこそ望むが、大ヒットはというと、それを望むより、僕が面白いと思う作品である事、ファミリーアニメとして良質な作品である事が優先した。
 その結果が大ヒットなら「そりゃ、よかったですね」程度の感覚だった。
 目の色を変えて大ヒットを狙う気持ちはなかったのである。
 しかし、御前様は『ポケモン』を大ヒットさせる事が、使命のようなものだったと思う。
 そこのギャップが、僕の頭の痛いところだった。
 監督の指示を尊重する心づもりでいたから、監督とはギャップは生じないだろう。
 だが、御前様とのギャップは、どう解決したらいいのか。
 本当なら、御前様と会わずに監督の指示待ちをすればいいのだが、シリーズ構成である以上、脚本の責任者として御前会議には出席しなければならない。
 当然、脚本に対する苦情、意見を、御前様は直接僕にぶつけてくる。
 だが、アニメ制作の最上層に位置するこの方にも、無視できない存在がいた。
 それが『ポケモン』の原作、つまりゲームを作った人たちだった。
 原作側が気分を悪くするようなアニメができてしまっては、原作であるゲームとの関係が壊れてしまう。
 『ポケモン』の場合、ゲームとアニメは常に良好な関係でなければならない。
 ゲームを作っている人たちが、アニメ化を嫌がる状態になる事は避けなければならない。
 僕としては、ゲームを作っている人たちが、僕が『ポケモン』のシリーズ構成をして脚本を書く事をどう思っているのか、それが気になった。
 アニメ制作のトップと原作側から嫌われたら、アニメ版『ポケモン』に、シリーズ構成・脚本である僕の居場所はない。
 ゲームの世界の人たちが、僕がシリーズ構成した作品や書いた脚本を見た事はあるかもしれないが、シリーズ構成者や脚本家の名前まで意識して記憶しているとは思えなかった。
 だが、実際に会ってみて、その人たちは、僕に対して、僕が予想もしない反応を見せてくれたのだった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 自分が頭の中で作り上げものが、「オリジナリティ」によるものなのか、単なる「大嘘」なのか。恥ずかしながら、今度は僕の子供の頃の話を例にしてみようと思う。
 僕が小学校の4年生の頃である。
 当時、僕は北海道の札幌に住んでいた。
 他の子供の家はTVがあったが、僕の家にはなかった。
 父が、TVは教育上よくないという判断を下したからのようであった。
 だからといって、僕が映像というものに無縁だったわけではない。
 父は映画好きだった。
 3歳の頃から、字幕も読めない外国の映画に連れて行ってもらった。
 父の映画選択眼は確かで、子供の頃に見た映画のほとんどが、映画史に残る名作として今も語られている。
 父は、子供に見せる映画に対して、子供向きを意識する事はなかった。
 むしろ、子供向き映画を見せないようにしていたようだった。
 大人が見て良質な映画は、子供が見てもいい映画だと思い込んでいるのかもしれなかった。
 たまに母方の祖父や叔父も映画に連れて行ってくれたが、父に言われていたのか、外国映画の大人向きの評判作ばかりだった。
 小学校の頃見たアニメは、ディズニーの『ファンタジア』だけである。
 『ファンタジア』はクラシック音楽にアニメ映像をつけた映画で、父に言わせると、ディズニーのアニメで、大人の鑑賞に耐える最高のアニメのひとつである。
 その意見に僕も異論はない。
 ついでに言うが、この父、宮崎アニメもしっかりチェックしていて『となりのトトロ』も、最高のアニメのひとつだと言う。
 その意見にも、僕は異論はない。
 で、この父だが、日本映画に偏見を持っていて、僕が連れて行ってもらった日本映画は黒澤明監督の「七人の侍」だけである。
 あっ、忘れていた。実写版の「少年ケニヤ」という映画を連れて行ってもらったが、子供の目にも、あまりに子供だましの映画で、父は子供に見せる日本映画に懲りてしまったのかもしれない。
 父個人としては小津安二郎監督や溝口健二監督の作品を見ていたようだが、なぜか子供の僕には、外国映画ばかり見せていた。
 小学4年以降、札幌から奈良に引っ越してからは、父は父なりに母と一緒に、僕は僕なりに映画を見ていたから、父と一緒に見た映画は、大人になった僕が5回劇場で見て、僕にとっての最高の映画として無理矢理見てもらった「アラビアのロレンス」だけである。
 父の感想は上々で、ほっとした。
 で、小学4年の僕は、級友たちの見ていた円谷特技監督の「ゴジラ」も「ラドン」も見ていなかった。
 父にねだっても連れていってくれなかったのである。
 その当時は、小学生だけで映画館に行くのは禁じられていたし、映画を見る事ができる小遣いもなかった。
 それでも、円谷特撮の怪獣映画へのあこがれは強く、ついに貯金箱を壊して映画代を作り、学校をさぼって念願の怪獣映画を1人で見た。
 「大怪獣バラン」という映画だった。
 小学4年としては一大決心で見た映画なのに、ひどくつまらなく、記憶から消してしまいたかった。
 で、小学校でその映画の話題が出た。
 今のように、親が気楽に子供を映画を見せに行くほど裕福な時代ではなかったし、「ゴジラ」や「ラドン」のように大人の評判がいい映画でもなかったから、「大怪獣バラン」を見たのは僕しかいなかった。
 子供がねだっても、あえて親が連れて行って見せようとは思わない、微妙なマイナー映画だったのである。
 それだけに、幻の映画「大怪獣バラン」は子供たちの想像をかきたてた。
 思わず「その映画、見たよ」と言ってしまった僕は、級友たちの質問攻めにあった。
 「どんな話? どんな怪獣? 面白かった?」
 「つまらなかった」と言えなかった僕は、僕が頭の中で作り上げた怪獣とストーリーを級友に話した。
 みんな「面白そう」と言って僕をうらやましがった。
 ところがである。
 数日後、「首藤君が面白いと言っていたから親に連れて行ってもらった」という男の子が僕に言った。
 「君が、面白いと言っていたところ、全然なかったよ。どうなってんだろう?」
 「きっと、上映時間の都合かなんかでカットされたんだよ」
 あわてて僕はそう答えた。
 その後、僕の頭の中で奇妙な変化がおこった。
 「大怪獣バラン」の話をいろいろな人に話しているうちに、僕の頭で作った「大怪獣バラン」が、僕にとっても、僕の見た「大怪獣バラン」になってしまったのである。
 つまり僕は、自分の作った「大怪獣バラン」を、自分が見た映画そのままだと思い込んでしまったのである。
 数年前、「大怪獣バラン」のビデオを知人から借りて見て、愕然とした。
 僕の記憶だと面白い怪獣映画のトップクラスだったのに、面白いかつまらないかはともかく、僕の見たビデオは全然、違うものだった。
 ここで言いたいのは、僕が子供の頃、オリジナリティのある子だった、というような事ではない。
 人間というものは、経験した事、見聞したものを、頭の中で別のものに作り替えてしまう事があるのだ。
 そしてそれを自分で表現してみると、ますます、頭の中で作り上げたものが確かなものになっていくのだ。
 あなたにも、多分、思い当たる事があるはずだ。
 過去に出会ったものに再び出会った時、自分が記憶していたものと違っていて「あれれ?」と思う時が……それは、あなたの頭が嘘をついているわけでもなく思い違いをしているわけでもない。
 あなたのオリジナリティが、作り上げたものなのである。


   つづく
 


■第146回へ続く

(08.04.23)

 
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