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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第129回 アフレコとプレスコ

 脚本の重要な部分を占めるのは言うまでもなく、台詞である。
 だが、アニメの場合、脚本家の思い浮かべたように、台詞が喋られるとは限らない。
 同じ台詞であっても、絵コンテによって、喋る時間が決められてしまう。
 つまり、絵コンテを描いた人が、思い浮かべる時間なのである。
 脚本家が考える台詞の時間とは、違ってくる。
 例えば、こんな台詞が「LIPS the Agent」に出てくる。

 愛と遊のコンビが乗ったカプセルが、宇宙に飛びだし、アステロイドベルトに突入する。小惑星の群れを、スキーの回転競技のように避けながら猛スピードで飛んでいく場面である。
遊「愛の操縦するカプセルは、火星と木星の間にあるアステロイドベルト……いわゆる小惑星群……ちっちゃい星くずが無数に散らばっている場所なんだけど……」
愛「通り抜けるのは大変……下手すりゃ」
遊「お星様とごつんこ……なんて言ってるまもなく、カプセルはアステロイドベルトつっこんだ」
 惑星をすり抜けていくカプセルの効果音
愛「右、右、左、上、右下、上……うひゃ、こりゃけっこう大変だ」
遊「ほれ、左、次は右、うえ、した、こりゃ、まるで、スキーの回転競技じゃ……」
愛「じょぶじょぶ、大丈夫。私、保険のかけられたオリンピックのスキー選手の身代わりで、3年連続、回転と大回転、銀メダルをとったんだから……」
遊「あちゃ……貸して、操縦桿(ハンドル)……」
愛「なして」
遊「そんとき、3年連続、金メダルだったの、わたしだよん」
愛「だっけ」
遊「でした」
愛「けど、わたし、まっすぐ滑る大滑降は金メダルでした」
遊「このさい。まっすぐいったらぶつかるわい。およこし」
愛「およこす」
遊「よっしゃ……」
愛「わたしから、操縦桿(ハンドル)を受け取った遊は、小惑星群のすきまを巧みにすりぬけていく……あらら……あなた、意外と器用よね」
遊「6歳の冬休み、新宿駅のラッシュで、スリのアルバイトを1ヶ月やったことがあってさ、毎日警官におっかけられたけど、人混みをすりぬけて1回も捕まらなかった」
愛「6歳の冬休みか……わたしはそのころ歳末大売り出しのバーゲンで、万引きのアルバイトしてた。13回つかまったけど、くすんくすん。わちき、5歳を頭に10人の弟と妹」
遊「6歳で10人のおっととといもととと……計算があわないぞ」
愛「弟妹はふたごでした。おまけにパパはとうさん……会社がね……ママはかいさん、離婚でね……家族の生活見るのはわたし……よよよ……なんて……鳴き真似したら、警察のおじさんたち、『おじさんはね、かわゆい子をいじめないんだよ。ぐふふふ』って……みんな許してくれた……13回とも」
遊「おっと……とっとっとと、それって、自慢話か?」
愛「いろいろあったってこと。お互いにね……」
 こんな会話を、小惑星群をすり抜けながら2人がしゃべくりあうのである。
 2人の台詞とスピード感と間を、絵コンテマンが把握するのはほとんど不可能だろう。
 アニメでこんな場合を表現するのは、声優の台詞に絵を合せるしかない。
 つまり、アフレコではなくプレスコである。
 絵コンテで絵が最初にできていたら、声優は台詞を合せるのに必死で、声優の持つ演技力や個性が表現し切れないだろう。
 ちなみに、この場面の台詞の、愛と遊の昔話は、かなりいいかげんである。
 惑星にぶつかる危機感の中で、気を紛らわすために適当な事を言っているのである。
 しかし、そのいい加減な台詞の内容の中にも、2人の性格や個性の違いが出るように僕は書いたつもりである。
 そこらの2人の性格の違いを、小山茉美さんと林原めぐみさんは的確に表現してくれた。
 これを、前もって描かれた絵に声をつけるアフレコで録音するとしたら、絵コンテを描く人が小山さんと林原さんの演技の質を相当理解していないと上手くいくはずがない。
 例えばアニメでない実写映画の場合、監督は演技指導はするだろうが、役者が台詞を喋る時間を「何分何秒間で言え」とは、決められないはずだ。
 「もう少し早口で……」とか「もう少し感情を込めて」とかは言えるが、喋る秒数までは指示できない。
 そこはもう、役者の演技力、表現力の領海である。
 役者の容貌も含めて、実写では、役者のキャスティングが、作品の質まで変えてしまう重要なものなのである。
 たまたまだが、いい例がある。
 今、リメイクの「椿三十郎」という映画が上映されているが、もとの黒澤明監督の「椿三十郎」と、全く同じ脚本で作られている。
 それでありながら、まったく違う作品に思える。
 監督の違いもある。
 カラー作品とモノクロ作品の違いもある。
 しかしなにより違うのは、俳優がもとの作品とは異なっている。
 同じ台詞を喋りながら、演技力と表現力、台詞の喋り方の違いがふたつの「椿三十郎」を、どちらがいいか作品の良し悪しは言わないが、ともかく全く別のものにしている。
 余計な事だが、なぜ、こんなリメイク映画を作ろうとしたのか、僕には理解できない。
 さらに、余計な事を言えば、監督の森田芳光氏は、僕と同じ中学の同期生で、同じ頃「椿三十郎」の黒澤明版を見ているだろうだけに、なぜ、わざわざ同じ脚本でリメイクしたのかが分からない。
 昔、「ミンキーモモ」の脚本を書いてくれた筒井ともみさんの書く脚本を、森田氏はしばしば映画化していて、筒井さんの脚本の感覚を分かる人なのだな……と、ある意味、共感のようなものを持っていた監督だっただけに、今、僕は首をかしげている。
 まあ、僕にとってはどうでもいい事だが、森田版「椿三十郎」を見ていると、次第に映画館の座席に座っているのが苦痛になってきた事は確かである。
 で、何を言いたいかというと、アニメにおいて、声優の演技力と表現力、個性は、声だけでしか聞こえてこない。
 事前に台詞を喋る長さを決めてしまうアニメのアフレコは、その唯一の役者の表現手段を損ねてしまっているような気がしてならない。
 結果、絵に描かれた喋りの時間(いわゆる、画面の登場人物の口が動いている口パク)に合わせる技術だけが優先して、最近のアニメ……と言っても随分前からだが……の声優は、パターンの決まったしゃべりしかできない、演技力、表現力と無縁の没個性な人が多くなっているのは事実のようである。
 これは、絵コンテを描く人も、自分の書く登場人物の喋りを描く際にもっと注意していい部分だと思うし、そんなアニメを見て、アニメ脚本家になった人も気をつけてほしい点だと思うのである。
 ともかく、アニメ脚本には、パターン台詞が多すぎる気がする。
 できれば、アニメは、アフレコでなく、声優がプレスコで、口パクの枷なしで自由に演技できるようになり、その分、演技力、表現力、個性のあふれる声優が、多く育ってもらいたい――と思うのは、僕だけだろうか。
 そして、アニメで、「LIPS the Agent」のような台詞を脚本家が軽々書けるようになってほしいものだ。
 次の台詞は、地球にも保険がかけられていて、満期寸前に、保険金目当ての宇宙人が地球を破壊して保険を受け取ろうとしているたくらみに、楊貴妃や愛や遊が気がつく場面である。

楊貴妃「詐欺よ。これは」
遊「は?」
楊貴妃「満期近い地球を、つぶして保険をだましとるつもりなんだわ」
愛「だれが」
楊貴妃「かみさん」
遊「だれの」
楊貴妃「そのかみさんじゃない。神様」
愛「どこの宗教の」
楊貴妃「しるか。ともかく、あの、でかい宇宙船に乗ってるやつらだわさ……うう、この地球は私の縄張り。私の縄張りで商売するやつはゆるせん。こりゃ、LIPの年増のコギャルども」
愛「え? わたしたち」
遊「ありがと、コギャルとよんでくれて……」
愛「そう、わたし愛」
遊「わたし、遊」
二人「リップス・ザ・エージェント」
楊貴妃「おんどりゃ自己紹介なんぞしとる場合か……おのれら、LIPSともあろうものが、こんな詐欺をゆるしていいのか」
愛「許すとはいっていないわ」
遊「けど、それは私たちがLIPSだからじゃない」
愛「アルタミラの洞窟、ロゼッタ・ストーンを、京都広隆寺弥勒菩薩……ストラディバリウスが奏でるメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトホ短調をコーラハンバーガーフライドチキンにコンビニを人間が築き上げた折角の歴史を今、私の時代に消すわけにはいかない……ね」
楊貴妃「はあ?」
遊「うん……ガラパゴスペンギンを、ミューレンベルグイシガメを、オオベソオウムガイをヤンバルクイナをアマミノクロウサギを、そしてマイアミのアリゲータを、滅ぼしちゃいけない」
楊貴妃「なんのこっちゃ」
愛「つまり地球を」
遊「滅ぼしちゃ」
楊貴妃「いかん。きんかん。なつみかん、三人同感」
三人「うん」

 こんな早口言葉とぽんぽん飛び交う台詞を、アニメで書いてみたいものである。
 「LIPS the Agent」の小山茉美さんと林原めぐみさんと島津冴子さんは、音響ドラマの中で、それを軽くこなしていた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 このロボットものの企画が、どのようにして、映像化が決定したのかは知らない。
 僕としては、この制作会社が長年かかえこんでいる魔女っ子ものの3部を、早く実現してほしかったのだが、それはこの際、関係ないとしておこう。
 ともかく、いきなり、このロボットの制作が決まったと言われた。
 何だか通りかかった船というか、行きつけの制作会社という気分で、シリーズ構成を引受けた。
 この制作会社に、過去のような魔女っ子ものを作れるパワーがあるかどうか知りたかった事も確かだ。
 なにしろ、その当時のスタッフは、ほとんどこの会社に残っていない。
 このロボットものには、前作があるが、それは全く意識しないでいいから、アメリカのTVシリーズの「24」のようなロボットものにしてほしいと、プロデューサーから言われた。
 テンポ、スピード、サスペンス、それにからむ人間模様……ともかくきびきびとした作品という意味だろう。
 そのつもりだったが、いつの間にか露天風呂で酔っぱらったのか、設定も伏線も人間模様も訳ワカメ状態(?)になって完成した。
 予算については知らない。
 スケジュールはタイトだったが、まさか、最終回がアフレコの3日前に絵コンテができ上がるような状態になるとは思わなかった。
 それが放映に間に合ったというのだから、それだけでも僕には奇跡にしか思えない。
 作画その他の制作スタッフの苦労を思うと鳥肌が立つ。
 監督がなかなか決まらなくて、しかも、決まった監督が前作にこだわりをもっていた人だった事は、多少はこの作品に影響しているかもしれない。
 いつもなら、口を出す声のキャスティングに、僕が今回はいっさいかかわらなかったことも、影響したかもしれない。
 全12話だし、近ごろの声優さんを知らないし、出しゃばる事もないと勝手に判断してしまったのだ。
 監督主導で決まったかどうかは知らないが、その中に『機動戦艦ナデシコ』の女性艦長がいたのを知ったのは、アフレコの1話の時だった。他のキャストにも、過去の僕の作品に声を入れてくれた人がいたが、脚本どおりにやってくれればいいや……の気持ちだった。
 このロボット作品について、今までこのコラムで読まれた方は、ずいぶんごたごたして揉めたような感じを持たれたかもしれないが、実際は、打ち合わせも本読みもほとんどが静かだった。
 監督は、あまり意見は言わないし、スケジュールのせいか疲れ切った様子で、いつも風邪気味のようだった。
 もう1人のシリーズ構成も、温和で、実は脚本家としてよりも、僕にとっては親しい知人といえる人だった。
 ただ、彼の書いた脚本は今まで一度も読んだ事はなかった。
 プロデューサーは、何事も穏便に事を進めたいらしく、いつもにこやかだった。
 別に波風が立つようには思えなかったし、思い出して見ても、口から泡を吹いて口論するような事もなかった。
 1話2話の脚本ができあがり、プロデューサーの評判もよかった。
 3話目、もう1人のシリーズ構成の書いた脚本に無理があったので、了解をとって直した。
 しかし、みんなにこやかだった。
 意志の疎通が上手くいくように、打ち合わせや本読み以外にも、メールや電話でいつでもそれぞれが連絡をとれるようにしていた。
 4話目にナイアガラの滝の問題が起こったが、スケジュールが詰まっていたので、これも僕が直した。
 もう1人のシリーズ構成も、さして気にしたようには見えなかった。
 スケジュールは、どんどんタイトになっていったが、別段、大慌てする気配もなかった。
 僕にしてみれば、スケジュールや予算のきつい仕事は今までも常だったし、プロデューサーと作品内容について大喧嘩したこともあった。
 それでも、書きたい脚本を書き、作品化されてきた。
 ただ監督とは、不思議と揉めた事はめったになかった。
 僕がシリーズ構成した作品は、新人や時には素人の脚本家が多かったから、それなりの修羅場や苦労が多かったが、脚本が完成し、それが作品化された時は、脚本家も含めほとんどの人が笑顔だった。……それが苦笑いだったとしてもだ。
 この仕事を長くやっていると、視聴者よりも、スタッフやキャストの顔色のほうが気になる。
 僕の脚本を首藤節という人がいるが、そう呼ばれるだけ、普通のアニメとは変わっているのだろうから、なおさら、自分の関わった脚本で、作品が完成した時のスタッフやキャストの顔色が気になるのである。
 アニメの実制作に関わる多くのスタッフは、仕事は過酷だし、収入も悲惨といっていい。
 きれい事を言うわけではないが、脚本は、そんなスタッフに、作品として完成した時に、ある種の満足感、達成感を呼び起こせるものでなければならないと思っている。
 だから、脚本を作る段階では、いくら揉めてもいいと思っている。
 それが、面白い脚本を作るためならば、いくらでも粘っていいと思う。
 それにしては、今回のロボットものは、打ち合わせも本読みもおとなしいくらい静かだった。
 だが、そんな中で脚本軽視は起こったのである。
 それでいながら、不思議な事に、監督は脚本を尊重している口ぶりである。
 どうやら、脚本を変えるのは、この監督にとっては普通の事のようであった。
 もう1人のシリーズ構成も、さして脚本を変える事を気にしているように見えなかった。
 監督ももう1人のシリーズ構成も新人ではない。
 むしろ、この業界ではバリバリの中堅だろう。
 それで脚本を変える事が気にならないというのは、この業界、それが普通に行われている事なのだからだろうか?
 それは、逆を言えば、変えられても仕方のない不出来な脚本が多いという事なのかもしれない。
 このコラムは、脚本家と、脚本家になろうとしている人に向けて書かれている。
 アニメが作られるシステムや監督やプロデューサーや局やスポンサーに対する苦情を言っても仕方がない。
 要は、監督やプロデューサーに簡単に書き変える気にさせるような脚本を書くな、という事である。
 脚本を変える事がくせになっている監督、演出、絵コンテには、書き換えられる余地のない脚本を書いて、そのくせを直してもらうしかないのである。
 今、話題にしているロボットものの作品の脚本は、そのためのいい反面教師になるかも知れない。

   つづく
 


■第130回へ続く

(07.12.19)

 
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