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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第123回 『機動戦艦ナデシコ』18話からさようなら

 『機動戦艦ナデシコ』の18話「水の音は『私』の音」では、ルリが常々、知りたいと思っていた自分の出生の謎が分かることになる。
 ルリはピースランドという子宝の恵まれない王国の後継ぎとして、試験管ベビーの形で保管されていた子供だという。
 試験管ベビーを保管していた医療機関がテロに襲われ、ルリの試験管は行方不明になったが、王国の懸命の調査でやっと戦艦ナデシコにいることが判明し、ある日、王国から、ピースランドのお姫様として、お迎えが来るのだ。
 ピースランドは、ディズニーランドのようなテーマパークで、かつラスベガスのような賭博フリー、エンターテインメント最優先のようなところが実際の国家になったような、珍妙な国に設定したが、これは18話のエピソードが全体的に陰鬱なものにならないようにしようとしたためもある。
 多少リアリティを持たせるために、スイスのような永世中立国で、お金のある人なら誰もが極秘の口座を持てる銀行のある国にした。
 民間企業の戦艦ナデシコは、税金対策上もピースランド銀行と無縁ではないということを少しは匂わせるためだ。
 ここいらは僕の貧乏性のせいかもしれないが、いわゆるロボットものでも、やたら金銭感覚が出てくる。
 たとえば、『戦国魔神ゴーショーグン』などという作品などでも、作戦を失敗した時の損害賠償やら、その支払いをローンでするか一括払いにするか……等々。
 僕が描く場合の『機動戦艦ナデシコ』も、上層部はやたら算盤勘定を気にしている。
 僕自身はケチなつもりはないのだが、なぜか脚本に金銭的リアリティ(?)が描かれている場合が少なからずある。
 さて、戦艦ナデシコの乗員から、いきなり王国のお姫様……ナデシコの乗員は仰天するが、戸惑うのはルリも同じである。
 自分の出生は知りたいが、それがお姫様だなんて……ルリにとってはまるで知らない世界である。
 そこで、コンピュータの「オモイカネ」に、お姫様の資料を見せてもらう。
 アニメオタクぞろいの戦艦ナデシコで学習している「オモイカネ」が、ルリに見せるのは「魔法のプリンセス○○○○」のアニメである。
 ルリはさすがにげんなりして「そういうのじゃなくて、他のビデオを見せて……」。
 ルリが「オモイカネ」にそう言ったところで、この後は18話では割愛されている。
 実は、裏設定で「オモイカネ」がルリに見せたビデオがあるのである。
 それを僕は「ローマの休日」(ウィリアム・ワイラー監督)という映画と、「ラ・マンチャの男」というミュージカルにした。
 「ラ・マンチャの男」は、娼婦をお姫様と思い込む頭の少しおかしい騎士(ナイト)気取りの老人ドン・キホーテの話である。
 ルリはアキトをお供にして、ピースランドに向かう。
 「お姫様にはお供のナイトが必要です」
 それが、なぜアキトなのかというと、アニメオタクで思い込みが激しいドン・キホーテのようでいて、「ローマの休日」のような素敵な1日が過ごせそうな気がしたからである。
 あくまで裏設定であるが、ピースランドでのルリとアキトの様子を見ると、もし映画「ローマの休日」を見た人がいれば、思い当たるところがあるかもしれない。
 「ローマの休日」では、スペイン広場でジェラートを食べる有名なシーンがあり、僕も脚本には書いたが、アニメではカットされている。
 ルリとアキトがピザを食べるシーンも、「ローマの休日」には出てこないが、イタリアを少しだけ意識した。
 どうでもいいことだが、僕はピザにはうるさい。
 縁の厚い本場ナポリ風のピザよりも、パリパリのせんべい風のピザが好きである。
 18話のアフレコの時に、スタッフの方とちょっとしたピザ談義をしたのを今も覚えている。
 ルリが不味い料理の特徴を言うくだりがあるが、この台詞にはいささか僕の皮肉も含まれている。
 さらに、どうでもいいが小田原に一軒ピザの美味い店があり、東京からわざわざ出かけても損はないと思う。
 おっと、脱線ごめんなさい。
 ルリの話に戻ろう。
 生みの親ともいえる国王と王妃には喜ばれたものの、ルリ自身はテーマパークのようなまがいものくさいピースランドになじめず、幼い頃英才教育を受けた北欧に向かう。
 そこでルリが見たのは、今は廃墟と化しているが、昔は遺伝子操作も含めた幼児の英才教育をほどこす実験場だった。
 ルリが断片的に覚えていた記憶は、父も母も教師達もバーチャルなもので、本物ではなかった。
 ルリを宇宙へ進出する天才として育てるための道具でしかなかった。そこに人間らしさはなにもなかった。
 廃墟にいた老科学者は、ルリを、宇宙へ進出する天才としての完成品だとほめたたえる。
 そして、完成品のルリは、その後、戦艦ナデシコを作った会社・ネルガル重工に高額で引き取られる。
 その後の記憶はルリの中にもある。
 ただ、それ以前の断片的な記憶の真実は、空虚なものでしかなかった。
 老科学者としても、悪気があったわけではない。
 身寄りのない試験管ベビーのルリを天才として育てる実験に成功したのだ。
 数多い他の失敗例はあったにしても……。
 老科学者は、ネルガル重工から受け取った金に手をつけず、ルリのために貯金しておいてくれた。
 皮肉にも、ルリをお姫様だというピースランドの銀行に……。
 老学者は老学者なりに、ルリを案じていたのだ。
 実験の完成品としてのルリの行く末を……。
 「生かしてくれてありがとう……でも、こんなことまで頼んじゃいない」
 ルリはそう言って、老科学者のほほを思い切り叩く。
 こんな風に育ててくれと頼んだわけじゃない……もっと人間として……人間らしく……。
 ルリは、そう言いたかったのだろう。
 だが、ルリが言えたのは、精一杯のこの言葉だった。
 「そのお金は、おじさんが使ってください」
 まがいものが集められたようなピースランドの子供として生まれ、天才を作る実験として育てられた自分。そのどこに自分の生があったのだろう。
 自分の生ってなんだろう。
 何のために生きているのだろう。
 自分を見失ったルリの耳に、ある音が聞こえてくる。
 それも、断片的に残っていたルリの記憶のひとつだ。
 もしかしたら、一番大切にしている記憶のひとつかもしれない。
 ルリは、音の聞こえる方向に走り、廃墟となった実験場から出る。
 ルリがそこに見たのは川の流れ……その水を弾き飛ばしながら遡上する鮭の群れ。
 それは、まがいものでもなく、実験でもなく、生き物が生きていこうとする真摯な姿だ。
 私は、この音を覚えている。私は、生きているんだ……。
 ルリの中に、生きていることへの感動が噴き出してくる。
 アニメに描かれるルリの姿を言葉に換えれば、こういう表現になるのかもしれない。
 戦艦ナデシコの乗員は、アキトも含めて馬鹿ばっかに見えるけれど、遡上する鮭のように一所懸命、生きているのかもしれない。
 そして、私も生きていく!
 もちろん、そんな言葉をルリは言わない。
 鮭の遡上を見つめるルリの安らかな顔に、ルリのナレーションが聞こえてくる。
 「結局、私は、馬鹿ばっかりのナデシコに戻った」
 そして、鮭の遡上する水音が膨らんでアニメは終わる。
 これで、いわゆるルリ3部作は終わりである。
 ルリがナデシコに戻ってどんなふうになるかは、他の脚本家の方にお任せすることにした。
 ストーリーエディター(シリーズ構成)の會川氏から、ルリを養子に出すと言われたが、うまく育って戻っていってくれたなら幸いである。
 僕における『機動戦艦ナデシコ』では、ルリは明らかに主人公だった。
 ルリに関しては、3部作以外に『機動戦艦ナデシコ』終了後に、15分ほどの、ルリが1人だけでしゃべるCDエッセイというか航海日誌らしきものを、ジーベックの佐藤氏から依頼があって書いた。
 誰もいない戦艦ナデシコのコクピットの中で、ルリが語りかけてくるといった内容で、ルリの内面をかなり話しているCDになった。
 確か『機動戦艦ナデシコ』のゲームか資料集のようなものの付録になっていたと思う。
 小田原の図書館に寄贈したため、今僕の手元にはない。
 もうひとつ、ルリに関しては、雑誌アニメージュの記事で、ルリの声を演じた南央美さんと、ナデシコとルリの話題を中心にして対談をしたことがある。
 かつてアクション女優を目指したこともあったそうで、アニメのルリとはまた別の魅力を持っている方で、楽しい時間を過ごせた。
 でき上がった記事を読むと、この対談の司会をしてくださったのが、皆さんにおなじみのアニメ様こと小黒氏だったらしいのだが、僕は南さんとの会話に夢中になって、小黒氏の姿も声も記憶からとんでいる。
 申し訳ない限りである。
 いずれにしろ、『機動戦艦ナデシコ』でルリを書けたのは、僕にとって今でも大事な出会いだったと思っている。
 だが、『機動戦艦ナデシコ』の事をコラムに書いていて思い出したことがあった。
 もうひとつ、制作会社ジーベック関係で、書いた仕事があったのだ。
 それが、『マクロス7』のCDドラマだった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 考えてみれば、びっくり仰天の種は、すでに最初の時点でまかれていたのかもしれない。
 まず、第1回の脚本を書きだした時に、監督がまだ決まっていなかった。
 だから、シリーズ構成の狙いを、後から入ってきた監督はよく理解していなかった。
 監督は自分流をやりたがるが、それを、シリーズ構成や脚本を書く側は、理解できるはずがなかった。
 なにしろ、監督本人が当初決まっていないのだから、意見を聞けるわけがない。
 おまけにプロデューサーは、監督の実力を疑問視している。
 しかし、脚本から絵コンテへと実制作に入れば、全体は監督主導で動かざるを得ない。
 もう1人のシリーズ構成の書く気の抜けた脚本のドラマ部分は、書き直したり書き加えたりすることで、最初はなんとかごまかせた。
 火山島に基地のあるロボットものだったが、露天風呂の温泉がやたらにでてくるのも、まあ、御愛嬌程度に思えば我慢もできた。
 余談だが、本当に今のアニメの人たちは温泉シーンが好きなようだ。
 この作品が終わった時は打ち上げで、キャスト達やスタッフの一部は本当に温泉に行ったらしい。
 主人公の1人は、「男の料理」などという雑誌を購読している料理マニアなはずなのに、作るものが中学校の家庭科並みなのも、脚本家が不勉強すぎるのを指摘すれば、なんとか直すこともできた。
 いくら、脚本を字コンテ風に書いても、演出家がそういうように絵コンテに反映させないのなら無意味だからやめた。
 そのうちに妙なことが起こった。
 脚本のクライマックス部分が、絵コンテに書いていないのだ。
 監督にきくと、アクションやら何やらで絵コンテの時間(つまり放映時間23分程度)がいっぱいになったので、今回のラストは次の話数のファーストシーンに回したという。
 監督は、脚本の本読みの時も疲れきったようすで言葉が少ない。
 あまり意見を言わない。
 アフレコスタジオでも疲れ切った様子だ。
 スケジュールが大変なのは分かる。
 絵コンテを直して短くして、23分の放送時間内に収める余裕がなかったのは同情に価する。
 しかし、次の話数は他の脚本家が書いている。
 そこに僕の書いた脚本のクライマックスが割り込んでいいのか?
 次の話数の脚本を削るしかないという。
 そういう話ですむ問題じゃない。
 著作権上、次の話数の脚本は、僕との共作ということになってしまうが、それでいいのか?
 まあまあ、そこんところは、今そんな事を言っていられる制作状況ではないんで、勘弁してください……。
 シリーズ全体で調整しましょう。
 制作状況の過酷さは、アフレコを見ればわかる。
 絵などほとんど動いてもいなければ、色もついていない状態なのだ。
 ある日、制作スタッフの何人かがいなくなった。
 会社を辞めたんだそうである。
 どんな事情があるのか知らないが、作品の制作過程を知っている人が途中で辞めていいものかどうか……辞めてしまったものはしょうがない……である。
 ますます、制作状況はきつく……というより、変になってきた。
 僕は、シリーズ構成の責任として、アフレコに出席することにしている。
 ちなみにもう1人のシリーズ構成は、誘っても一度も出てこなかった。
 で、アフレコスタジオで、なんと次のようなことが起こったのである。
 絵コンテの分数を計算したら足りないので、ワンシーン書き足してくれというのだ。
 しかもそこは、どう見てもその話数のクライマックスへ続く重要シーンである。
 そのシーンがなぜ絵コンテで足りないのか?
 責任は脚本家? 監督? 演出? 絵コンテマン?
 だが、今更、そんなことをとやかく言っている時間はない。
 しかも、監督には手に負えない重要シーンだという。何とかしてくれという。
 僕は困った。いつもの僕の脚本の絵コンテなら、アドリブで何とかできるかもしれない。しかし、今回は困った。困るはずである。
 なぜなら、その絵コンテの脚本を書いたのは僕ではなく、一度もアフレコに出てこないもう一人のシリーズ構成だったのである。
 他人の書いた脚本の欠落した部分を、なぜ、ぎりぎりになって僕が書きくわえなければならないのか。
 しかし、その場に立ち会っているシリーズ構成の1人としては、ほうってはおけない。
 重要なシーンだけに、それなりの重要なアイデアが必要だった。
 他の作品で使えばひとつのシリーズができそうな、少なくとも1本のエピソードにはなりそうなとっておきのアイデアを、わずか30秒ほどの他人の脚本の絵コンテの欠落シーンのために、書かざるをえなくなった。
 僕は、むかむか吐き気がしてきた。

   つづく
 


■第124回へ続く

(07.11.07)

 
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