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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第119回 交通事故から生まれた『機動戦艦ナデシコ』12話

 僕が書いた『機動戦艦ナデシコ』の2作目は12話にあたる「あの『忘れえぬ日々』」というエピソードだった。
 この時も、メインスタッフから出た注文は、『機動戦艦ナデシコ』の全体のストーリーとは、関わりのないエピソードでいいとのことだった。
 つまり、戦艦ナデシコとその乗員が登場するなら、どんなエピソードでもいいというのだ。
 ただ、全体のストーリーの流れに、影響をおよぼさないエピソードであってほしい。
 つまり、『機動戦艦ナデシコ』という作品にとって、あってもなくてもいいエピソードだが、あったほうが『機動戦艦ナデシコ』の作品世界がふくらむというか、豊かになるようなエピソードが欲しいというのだ。
 あってもなくてもいいエピソードという意味では5話の「ルリちゃん『航海日誌』」と同じである。
 こういうストーリーを書いてくれという具体的な提示はなかった。つまり、『機動戦艦ナデシコ』の作品世界を外れなければ、何を書いてもいいということだった。
 何を書いてもいいというのは、脚本家にとって楽なようだが、元になっている『機動戦艦ナデシコ』の世界観や設定が、僕自身が作ったものではないだけに、意外と難しい。
 他人様の作った原作に、僕のオリジナルをぶち込んで、他人様の原作の世界を変えないでおくというのは、他の作品のほとんどで原作やシリーズ構成をやっている僕には、かなり戸惑う作業なのだ。
 仮に原作のある作品でも、僕がシリーズ構成をすると、原作とは違う味のものになってしまう。
 良くも悪くも、原作の世界観が変わってしまうのである。
 僕がシリーズ構成をすると原作が僕流の別物のアニメになってしまうのだ。
 そのため、原作通りではアニメ化が不可能な作品や、どう原作を料理してくれてもいいという原作者やメインスタッフの了解がある作品以外は、作品世界を変えると原作者に失礼だから、できるだけお断りしている事にしていた。
 そのため、僕の脚本には、他の人の原作のあるものが極めて少ない。
 しかし、今回の『機動戦艦ナデシコ』は、僕の姿勢がいつもと違う。
 何を書いてもいわゆる首藤節と呼ばれる僕の作品に、いささか飽きもし、疲れもしたから、他の人のシリーズ構成の下で、一脚本家としてやってみたらどうなるかを試したかったのである。
 だから、『機動戦艦ナデシコ』に関しては、シリーズ構成やメインスタッフの指示どおりに書き、首藤的な色彩は禁じ手にしようと思っていた。
 つまり、僕のオリジナル部分はできるだけ消すつもりだった。
 ところが、『機動戦艦ナデシコ』が始まって見れば、僕の書くエピソードは、僕の好きなように書いてくれとの指示である。
 ただし、『機動戦艦ナデシコ』の本筋とは、あまり関わらないエピソードの部分だが……。
 好きに書いてくれと言ってくれるのはありがたいが、僕自身の思惑とは違う。
 僕としては、原作……つまりはシリーズ構成の指示したストーリーどおりに書くつもりだったのである。
 この食い違いに、僕は困った。
 後でストーリーエディター(シリーズ構成)の會川昇氏に聞いた話だが、氏はかねてから、僕の作風を知っていて――なんと、大昔、『ビデオ戦士レザリオン』という東映動画のロボットシリーズの中で2本だけ書いて僕自身が忘れていたような脚本まで憶えていてくれていた――『機動戦艦ナデシコ』にあえて僕風の異質な脚本をまぎれこませて、いままでにない、『機動戦艦ナデシコ』ならではの独特な広がりをもたせたかったのだそうである。
 それがために、『ミンキーモモ』などで僕をよく知る南極二郎こと佐藤徹氏を通して『機動戦艦ナデシコ』への参加を僕に依頼したらしい。
 つまり、求められていたのは『機動戦艦ナデシコ』脚本メンバーとしての参加というより、ちょっと変わった首藤節の脚本だったのである。
 どうやら、會川昇氏にとっては、僕の脚本というのは、『機動戦艦ナデシコ』という作品の様々な設定のひとつだったようである。
 で、本当は脇役だが放映当初からなぜか人気が出ていたルリのエピソードを、ほとんど僕に書かせようということになったらしい。
 そんなわけで、かなり僕の勝手に僕好みのルリのキャラクターを作ったが、『機動戦艦ナデシコ』の全体のストーリーの中で、上手く収まってくれていたら、僕としてはうれしい限りである。
 ただし、最初は戸惑った事も確かだ。
 なにしろ、僕の書く脚本のエピソードは、シリーズ構成やメインスタッフが決めてくれていると思っていたので、僕自身は何も考えていなかった。
 全体のストーリー上では何も起こらない5話の「ルリちゃん『航海日誌』」は、『機動戦艦ナデシコ』のはじめの部分の話数だったから気楽に乗り越えたが、12話ともなると、全26話の真ん中あたり、他の設定が表に現れ、主役以下の他の登場人物のドラマも動き出している。
 ここで、『機動戦艦ナデシコ』の全体のストーリー上、何にも起こらず、13話に影響をおよぼさないでつないでいくエピソードとなると、かなり難しい。
 ルリのキャラクターも掘り下げたい。
 そんな頃である。
 僕は自動車事故を起こした。
 別に『機動戦艦ナデシコ』の12話について考え込んで気が散っていたわけではない。
 だったら、僕の自動車事故など『機動戦艦ナデシコ』に関係ないと思われるかも知れないが、そうでもなかったのである。
 当時、僕は小田原に住んでおり、打ち合わせなどの時、毎週のように東京まで車で通っていた。
 今だから言うが、小田原から東京まで40分、平均時速130キロから140キロで飛ばしていた。
 完全に違反行為だが、そのことはひとまずふれずにおく。
 運転にも自信があった。
 急坂を駆け降りて、車ごと宙に浮いた事もある。
 ちなみにその時は、知人の脚本家が3人乗っていたが、誰も気がつかなかった。
 もちろん自慢になることではないし、同乗していた脚本家がそれを知って、僕に対して恐怖感をもたれても困るので、いまだに内緒である。
 その中の人が、このコラムを読んでいたら、思い当たる人がいるかも知れない。
 もっとも東京に住んでいる今は、僕は運転をしないからご安心を……。
 車はドイツ製で、頑丈で安定感があり、街中を走るにはハンドルが重すぎるが、時速80キロを越すとハンドルが軽くなる高速仕上げで、10年以上同じものに乗り続けていた。
 細かい故障はあったが、なにより頑丈で馬力があって、僕はその車と離れがたかった。
 40代で結婚した僕からすれば、妻よりも長い付き合いだった愛車であった。
 いまでも、あの車の事を思い出すと、胸が熱くなる。
 その10年来の愛車を、魔がさしたとしかいいようがないが、僕はなんと時速30キロで、街中で駐車違反している車にぶつけてしまったのである。
 運転している僕には、コツンとも感じなかった。
 だがそれは、運転者を守る衝撃緩衝装置が効いたためで、エンジン部は大破していた。
 車は、乗っている僕を守って死んでしまったのである。
 僕は呆然となり、涙さえ出てきた。
 本来なら高速道路を140キロで微動だもせずに驀進していた愛車が、わずか30キロの速度でおしゃかである。
 本来の力で出せる速度で事故を起こしていたならともかく――最もそれで事故を起こしたら、僕は死んでいる――わずか30キロで運転者を守って死んでいった僕の愛車……悔しかったろうなあ……僕は、車の気持ちを思うと、情けないやら、申し訳ないやら、まるで恋人を失ったような気分になった。
 その時、僕は壊れた車を、物としてではなく、心のある人間のように思っていた。
 その日の午後、『機動戦艦ナデシコ』の打ち合わせがあったが、車を失ったショックで、その内容を何も思い出せない。
 で、次の日、ふと思ったのである。
 僕と愛車の関係を、ルリと戦艦ナデシコに置き変えたらどうなるか……。
 つまり、戦艦ナデシコが自意識を持ち、それを理解できる少女がルリだとしたらどうなるか……。こうして『機動戦艦ナデシコ』12話「あの『忘れえぬ日々』」の骨子がおぼろげながらにできてきた。

         *     *    *

 なお、このところ、僕がシリーズ構成でもなく書いた本数も3本だけの『機動戦艦ナデシコ』の話題が続いているけれど、その理由のひとつは、わりと僕の記憶に新しいこともあるが、他の僕の作品に比べレンタル店で見かけることが多いからである。他の『機動戦艦ナデシコ』のエピソードはともかく、僕の脚本のエピソードは、それぞれのエピソードだけで完結しているので、僕のエピソードだけでも暇があったら見てください……などと言ったら他の『機動戦艦ナデシコ』のスタッフに怒られるだろうなあ……。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 説明台詞は書かない事を前提にして、それでもケースバイケースで説明台詞が必要な時もある……と前回書いた。
 それは主に、視聴者に対してではなく、作品製作上の事情であるとも……。
 それは、本読みに出席する監督やプロデューサーなどのメインスタッフに、脚本を読める能力がない場合である。
 めったにない事だと信じたいが、省略が効いて、説明台詞の少ない脚本の場合――ただし、読まれている脚本がまともな出来の脚本の場合に限られる事は言うまでもない――スタッフに脚本を読む能力がないと、登場人物の性格を勘違いされる場合も出てくるのだ。
 アニメにはパターン化した登場人物が多い。
 脚本を読む能力がない人が脚本を読むと、脳内で勝手にパターン化した登場人物像を作り上げてしまう。
 そして、脚本家が作り上げた登場人物の性格を、勝手にねじ曲げて理解したつもりになってしまうのである。
 そして、そんなスタッフによって絵コンテが作られると、脚本家が予想もしなかった作品ができる事もある。
 それを避けるために、やむを得ず、「私はこういう人間で、今こういう気持でいます」という説明台詞を書かねばならない事もある。
 僕の場合、幸いにして、脚本が読めない監督やプロデューサーやスタッフに巡り合う事は少なかった。
 それでも、僕の書く登場人物は、パターンどおりにいかない行動をとる場合が多いから、その行動の理由を説明する必要があると感じる時もある。
 だが、脚本が読めるスタッフだと、絵コンテで、そんな説明台詞は余計だと削ってくれる場合もある。
 そんなスタッフに出会えたら、もう余計な説明台詞はいらない。
 脚本を読める能力があるスタッフかどうかは、最初の打ち合わせと本読みで分かる。
 だから、僕の場合めったにないが、最初に読んでもらう第1稿を、若干説明台詞過多にして、相手が脚本が読めるスタッフだと分かると、2稿目は極端に説明台詞のない脚本にする、という高等技術を使う方法もある。
 もちろん、脚本家本人にとって書きたかったのは、2稿目のほうである。
 しかし……である。
 作品の製作状況によっては、説明台詞うんぬん以前に、脚本そのものを無視される場合もある。
 これは、スタッフに脚本を読む能力があるとかないとかいう以前の、劣悪な制作状況による場合が多い。
 次回はそのことにも、少し触れておこうと思う。

   つづく
 


■第120回へ続く

(07.10.10)

 
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