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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第117回 『機動戦艦ナデシコ』でお葬式

 『機動戦艦ナデシコ』の5話「ルリちゃん『航海日誌』」は、確かに全体のストーリーから見ると、何にも起こらない部分である。
 1話から5話までで、『機動戦艦ナデシコ』の設定や人物の紹介は一応終わっており、地球近辺のすったもんだの戦闘も終わり、宇宙に船出したナデシコは、敵のいる火星に向かっていく。
 ナデシコが火星近辺で出会う出来事は決まっているが、いきなり地球近辺の次の話が火星というわけにもいかないので、火星の話は6話にして、5話は、ナデシコが地球から火星にいくまでに起こったエピソードを、僕に書いてくれというのだ。
 「どんなエピソードでもいいの?」
 僕は聞いた。
 「かまいません」と、シリーズ構成の會川昇氏は言ってくれたが、僕だってシリーズ構成をやっている。簡単にどんなエピソードでもよいというわけにもいかないことは、僕自身がよく分かっていた。
 おそらく、1話から4話までで描かれた設定や人間関係を引きずって6、7、8話あたりまでのストーリー構成(設定や人間関係)はできているだろうし、すでにその話数を他の脚本家が書き始めているかもしれない。
 その間に、ぽこりと入った5話は、次に続く6話7話8話に影響をおよぼすようなエピソードでは困るのである。
 例えば、それまで愛し合っているヒーローとヒロインが憎しみ合うような結果になるエピソードを入れると、6話7話8話のヒーローとヒロインの関係が変わってしまう……実際の『機動戦艦ナデシコ』では、ヒロインの一方的な思い込みで、ヒーローはヒロインに恋愛感情を持つ、というよりいささか持て余し気味でいるのだが。その関係は、そのままの状態にしておかなければ、後のエピソードがおかしくなってくるだろう。
 戦艦ナデシコ自体が破損したり、特殊な能力を持つような話も、次の話数を変えてしまうことになる。
 敵味方の関係を変化させるようなエピソードも困る。
 4話までの設定と人間関係を、そのままの形で6話へ続けさせる5話でなければならない。
 つまり、後に続く話数のエピソードに影響を及ばさない、『機動戦艦ナデシコ』という作品の設定や人物関係に対して文字どおり何も起こらないエピソードにしなければならないのである。
 『機動戦艦ナデシコ』のストーリー展開上では、何も起こらない。
 ただし、ストーリー上ではなくてもいいエピソードだが、5話というスペースを与えられている以上、『機動戦艦ナデシコ』という作品にとっては、あるべきエピソードでなくては5話は存在する意味がない。
 どんなエピソードでもいいが、後に影響をおよぼさなくて、それでいて作品にとって必要な内容……『機動戦艦ナデシコ』という作品において、何にもないところを書けという注文は、簡単なようで難しく、けれど僕にとっては実は結構簡単だったのである。
 要するに、それまでは設定上で決められてそのとおりに動いていた登場人物のキャラクターを、設定は変えずによりくっきり描き込めば、『機動戦艦ナデシコ』という作品にとって価値のある5話になると思ったのだ。
 すでに企画設定の状態で、『機動戦艦ナデシコ』には、描き込みたい登場人物がわんさかといた。
 僕から見れば、どのキャラクターも、描き方次第で少なくともエピソードのひとつやふたつの主役になれそうな登場人物が網羅されていた。
 一応主役と見なされるナデシコ艦長の女の子(ユリカ)と料理人志望の男の子(アキト)はもとより、噛めば噛むほど味の出てきそうなキャラクターばかりだった。
 それに、まだ1話から4話までの状態では、戦艦ナデシコの置かれている設定と登場人物の紹介をするのにきゅうきゅうとしていて、味が出るほどそれぞれのキャラクターをよく噛み込んでいるとはいえないように僕は思えた。
 逆を言えば、それだけ魅力的な設定とキャラクターを呆れるほどぶち込んで、『機動戦艦ナデシコ』という作品は発進したと言える。
 結果的には、全26話と劇場版だけでは、この作品の設定や大勢のキャラクターを消化しきれず、随分、もったいない作品だった。
 少なくとも52話か、やり方によっては104話、つまり2年分ぐらい続いてもおかしくない要素は詰まっていたと僕は思う。
 もっとも、これは、制作状況や視聴率やDVDを含め関連グッズ(いわゆる大人の事情)のことは考えないで言っている、僕のたわ言に過ぎないのかもしれないが、ともかく26話と劇場版だけでは惜しい作品だった。
 で、『機動戦艦ナデシコ』の5話の話に戻れば、誰でもいいから登場人物のキャラクターを描き込めば、それで、充分1本分のエピソードになると思った。
 しかし、主人公のユリカとアキトを描き込めば、今後のストーリー展開に影響を与えかねない。
 かといって、僕が勝手にピックアップした登場人物を主人公にすると、その人物が突出して目立ちすぎ、その後のストーリーの邪魔になるかもしれない。
 結局、主人公を含む数人のキャラクターが何かをきっかけに右往左往する様子を、誰かが見ているという構成で、エピソードを作る事にした。
 誰かとは、もちろん脚本家の僕であるが、僕に代わってその位置にいる登場人物が、都合のいい事に、すでに戦艦ナデシコに乗っていた。
 脇役だが、オープニングのナレーションを喋っているオペレーターのルリという少女である。
 ふだん無口で周りの登場人物を冷たく見つめ、ぼそっと「馬鹿ばっか」とつぶやく少し生意気な皮肉屋の少女だった。
 この少女が、右往左往する登場人物を見て、台詞に出すか出さないかは別にしても「やっぱり、みんな、馬鹿ばっか……」とつぶやけるようなラストにしたかった。
 登場人物が右往左往するきっかけは、お葬式にした。
 一般の人が右往左往するといったら、とりあえずは何といっても冠婚葬祭である。
 別に考えあぐねたわけではなく、これはすぐに思いついた。
 思いついたというより、僕がかねてからどこかで書きたかった素材だった。
 余談になるが……前にも書いたが……脚本で食べていけるようになる前、20代の前半、アルバイトでセールスをやったことがある。
 最初は子供向けの教育機器だったのだが、なぜか成績がよく、ヘッドハンティングされ冠婚葬祭のセールスの営業主任になった。
 いわゆる、冠婚葬祭互助会のセールスである。
 一定期間会費を払うと、冠婚葬祭が普通の相場より安くできるというふれこみのもので、30年前の当時は確かにいくらか安くできたが、今は知らない。セールスをやめてから数十年、不勉強で、今時の一般の葬儀の相場に関心がなくなってしまったのだ。
 余計な事だが、悪質なセールスマンには互助会に入ると葬儀が無料になるという人もいるが、ただにはならない。
 実費はとられるから、現実には少し安くなるだけである。
 この訪問セールスは、かなり難易度が高かった。
 結婚式のやり方など当人同士と周りで決めるものだし、どんな結婚式をやろうとあまり値切ろうとはしないだろう。
 だから、冠婚葬祭といっても、主目的は「葬」のほうである。
 いつ起きるか分からないし、いくら値段がかかるか分からないし、いざとなれば気が動転して値切ることもできない。
 とはいえ、葬式の予約前払いなど、普通なら縁起が悪いと塩をまかれるのが落ちである。
 それでも、この訪問セールスは、売り物が相手の家族や知人の死に関わる葬式だけに、様々な家庭や人間関係の事情を見る事になり、社会勉強や人間観察の役には立ったと思う。
 実際の葬儀担当が、しっかりやってくれれば、後で加入者に喜ばれることもあった。
 そんなアルバイトをしていたために、僕は葬儀というものに普通の人よりは詳しくなった。
 言うまでもなく、葬儀は宗教、宗派によってやり方が違う。
 突然の葬儀に右往左往する悲喜劇は、想像できる人も多いだろうが、宗教と葬儀の結びつきを日常的に考えている人はあまりいないだろう。
 さて『機動戦艦ナデシコ』である。
 ナデシコは民間の戦艦である。
 軍隊ならば軍隊式の葬式があるだろうが、民間なら宗教の自由があるはずである。
 葬式も様々な様式が求められるはずだ。
 『機動戦艦ナデシコ』の4話では、戦闘が行われ死者も出ている。
 5話で戦死者の葬式が行われ、戦艦の責任者……つまりは艦長ユリカが、戦死者の宗教の違いで右往左往するはめになってもおかしくはないだろう。
 宗教を作品の素材にすることは難しいといわれている。
 まして、第5話は葬式と宗教に右往左往する話をアニメで描いている。
 『機動戦艦ナデシコ』の5話には、驚いた人も呆れた人も多かったらしい。
 「よく、あんなエピソードを考えつくね」と僕に言った人もいたが、実は、もともと、考えていた素材だったのである。
 民間の戦艦という『ナデシコ』の設定が、その機会を与えてくれたのだ。
 だから、『機動戦艦ナデシコ』第5話のエピソード「ルリちゃん『航海日誌』」の主テーマの葬式部分はすぐに思いついたのだが、葬式に右往左往することによってキャラクターの人間性のどんな部分を表現したらいいかは、少し考えこんでしまった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 前回に続いて説明台詞について語ろうと思う。
 アニメを見るのは子供、しかも家庭のTVである。画面に集中しているわけではないから、できるだけ画面の状況や登場人物の気持を台詞で説明してあげろ……という意見には、一理あるとは思う。
 しかし賛同はしない。
 本当に、家庭のTVを見ている子供はTV画面に集中していないのだろうか? それが疑問だからだ。
 昔は14インチのTVが普通だったが、今は20インチ以上、29インチ以上などというTVが普通の時代である。
 確か、目の健康を考えても、インチ数の2倍から3倍は、離れてTVは見るべきもののはずだった。
 29インチ以上などというTVは一般の家庭の部屋の広さに比べて、画面が大きすぎるのだ。
 大人にとっても大きすぎるTV画面が、子供の目線から見ればさらに大きくなる。
 おそらく、視界全てが、TVの画面に占領されている子も多いはずだ。
 家庭のTVといっても、核家族化した現代、部屋にいる家族も少ない。
 TVを見ている時に、他に気が散る要素がない。
 小さな子など、TVの中に引き込まれているような感じだろう。
 そこは、がちゃがちゃと動くアニメと飛び交う台詞と効果音と音楽の世界である。
 放送されているアニメ作品の出来がいい悪いという以前に、子供の目と耳と脳に対して情報量が多すぎる気がしてならない。
 そこにもってきて、いちいち画面の状況や登場人物の気持を説明してくれる台詞が聞こえてくる。
 説明されれば、考える必要がない。
 TVの台詞が説明してくれるとおりに納得してしまう。
 当然、想像力が薄れていく。
 アニメ脚本を書いている僕が言うのはそうとう変だと承知してあえて言うのだが、本来、子供が1日に1時間も2時間もアニメを見ることは決して良い事だと思っていない。
 僕の事を古いやつだとお思いでしょうが、今のアニメは、というより昔からアニメを含めてTVは、情操教育上、子供にとってよいものだとは思えないのだ。
 なにより子供の想像力を奪ってしまう。
 そればかりか現実でないものを、子供の中に、現実だと錯覚させてしまう。
 説明台詞は、その錯覚を助長させる。
 僕は、脚本の芸術論としてでも技術論としてでもなく、子供にとって説明台詞は好ましいとは思えない。
 まして、現代はアニメを見るのは大人、しかも個室のTVやパソコンで、である。大人が画面に集中している時代になりつつあるのだ。
 それでも画面の状況や内容や登場人物の気持を台詞で説明する必要があるとしたら、気味が悪いというか恐ろしい感じがするのは僕だけだろうか?
 ついでだから書いておくが、日本語で喋っているバラエティ番組に、いちいちわざとらしく装飾した字幕が出るのも何だか気味が悪い。
 ああいうのは、説明字幕というのだろうか……?

   つづく
 


■第118回へ続く

(07.09.26)

 
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