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第115回 『機動戦艦ナデシコ』のなんでもかんでもぶち込め感
『機動戦艦ナデシコ』はジーベックというアニメ制作会社が作っていた。
この会社の中心メンバーは、僕の関わった『アイドル天使 ようこそようこ』や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』で、とてもがんばってくれたスタッフだった。
その2作品に限らず、僕のシリーズ構成した作品はかなり変わった脚本の作り方をしていたから、普通のアニメ作品とは違った過重な手間を、実制作スタッフの皆さんにかけていたのはよく分かっていた。
そんな作業を、面倒くさがらずに、むしろ楽しそうにスタッフの皆さんはやってくれていた。
この2作品がそれなりの作品としてでき上がったのは、そんなスタッフのがんばりが大きかった。
僕自身も、これらの仕事が楽しくできたのは実制作スタッフのお陰だと思っている。
その実制作スタッフの要(かなめ)のようになって大活躍していたのが、以前もこのコラムに書いたが、ペンネーム南極二郎氏こと佐藤徹氏だった。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の海モモが終わってからしばらくしたある日、南極二郎氏とお会いした時、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の制作会社、葦プロダクションを辞めて、別会社を作る事になったと聞かされた。
他にも、何人かの人が辞めて、その別会社に参加するという。
フリーの脚本家である僕が、葦プロダクションの内情を知るはずもないが、色々事情があっただろう事は予想できたし、僕のシリーズ構成した作品で、随分お世話いただいた南極二郎氏他のスタッフが決めた事である。
「がんばってね」としか言う言葉がなかった。
その会社がジーベックだ。
脚本家としてやれることがあれば、少しでも協力したいと思った。
その時僕は『(超)くせになりそう』のシリーズ構成をやっていたと記憶しているが、ジーベックという会社の事は、その後も気になっていた。
で、「黄龍の耳」の音響ドラマが終わった頃、南極二郎氏こと佐藤徹氏から電話がかかってきた。
新番組が決まったので、脚本に参加してくれないか……という内容だった。
どんな内容の作品かもろくに聞かなかった……というより、どんな内容の作品でも参加するつもりで脚本の打ち合わせに出席した。
それが『機動戦艦ナデシコ』だった。
企画に読売広告社の大野実氏、ベースプランニングという何だかよく分からないスタッフタイトルにキング(スターチャイルド)の大月俊倫氏がいた。
南極二郎氏こと佐藤徹氏らジーベックの元葦プロのメンバーを加えると、監督や脚本陣をのぞき、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の海モモでよく知っている人達だった。
ということは、その人達も僕の作風をよく知っているはずである。
宇宙SFアニメの脚本に、なぜ、僕の参加が必要なのか、正直最初はよく分からなかった。
『機動戦艦ナデシコ』の企画や設定はすでに決まっていて、脚本はすぐにでも書きだせる状態のようだったが、その設定をちらりと読むと、簡単に行きそうにないことがすぐにわかった。
ともかく、設定がやたらに欲張りで膨大なのである。
SFであり、アクションであり、ラブコメであり、ロボットアニメであり、ドタバタであり、シリアスでもあり、なにやら宗教、思想、哲学的な要素もあり……ともかく、ナデシコという戦艦に何でもかんでもぶち込んで宇宙に打ち上げた感じだった。
それに、登場人物がやたらと多く、それぞれそれなりのひねった個性分けがしてあり、どのキャラクターも、しっかり描けば、ひとつのドラマの主人公になれそうな人物がぞろりと並んでいた。
つまり、脚本家にとって、おいしいキャラクターが、よりどり見どりでそろっているのである……ただし、脚本家がそれぞれの人物を上手く生き生きと描ければの条件付きだが。僕がシリーズ構成なら、100話以上は続くナデシコという戦艦を主人公……つまり、舞台が主人公という意味の集団群衆ドラマにするしかないほど、様々な要素がぶちこまれていた。
上手く描ければ、大袈裟に言ってバルザックの人間喜劇、宇宙戦艦版にもなりそうだった。
よくまあこれだけ、ネタの品数を取りそろえたものだと感心したが、後で聞いたら、この企画設定にはいろいろな紆余曲折があり、やっとまとまったのが、僕の読まされた企画設定だったらしい。
何でもかんでもぶち込むのは徹底していて、一見、能天気なコメディに見えるこの作品には、SF考証担当の人までいて、エピソードの中に出てくる様々な出来事がSF的に正しいかどうか調べてくれる事になっていた……科学的に正しいというのは分かるが、SF的に正しいとはどういうことなのか、いまだに僕にはわからないのだが。さらに、艦内に70年代巨大ロボットアニメのオタク達が登場するため、『ゲキガンガー3』という架空のロボットアニメさえ作る予定になっていて、実際に劇中劇として作られた。
今思うと、何でもかんでもぶち込むというのは、『機動戦艦ナデシコ』の少し前から、今に至る時代の特徴かもしれない。
これは、僕だけの考えだから気にしないでほしいが、『機動戦艦ナデシコ』の前に『新世紀 エヴァンゲリオン』があったのを忘れてはいけない気がする。
両方とも、大月俊倫氏が関わっているのが共通点だが、このふたつの作品は似たようなところがある気がする。
それは何でもかんでもぶち込んでいる点である。
僕が『新世紀 エヴァンゲリオン』を見たのは当初、TV版の3本だけだった。理由は、あのアニメの舞台が、当時住んでいた小田原箱根近辺になっているらしく、かなりアニメの美術背景が現実の風景に似ていて、あのアニメの関係者が、僕の住んでいるあたりにいるのかな、と興味を持ったからである。
だが、アニメ好きの知人から、「あの作品はミンキーモモの『私って誰?』という自分探しのテーマの部分を自閉少年的に描いたもの」と言われ、「なるほどね」と思い、それ以後は見ていなかった。
ところが、それが社会現象的ブームで大ヒットになった。
ふだんの僕は「自分は自分」で、他人が何を作ろうと何がブームになろうとかまわないのだが、その頃の僕は自分の作風にいささか飽きていたから、『新世紀エヴァンゲリオン』のブームが気になって映画版を見た。
そして、自分なりに「なるほどね」と納得したし、少し苦笑さえしたのである。
人は思春期や青年期に「自分とは何か」「人生とは何か」などと悩み考える時期がある。
その答えを見つけようとして、本を読んだり、人と話しあったり、世の中で起きる様々な出来事に実際に向き合う。
昔の若い人は、それが行動的だった。で、その後、普通は大人になって社会にもまれると、自分探しなどどうでもよくなってしまう。
現実に起こる目先の恋愛とか、利害関係のほうに気を取られしまう。
それが大人になったという事かもしれないのだが、いずれにしろ「自分探し」は、若い時期での通過儀礼のようなものかもしれない。
ところが、「自分探し」を行動的にしない若い人が増えてきた。
そんな人は自分の部屋にこもって、TVやインターネットの情報で「自分探し」を内向的にしようとする。
いや、本人は「自分探し」を意識していないのかもしれない。
そこに、内向的な「自分探し」に役立ちそうな自立の問題、宗教や思想や哲学っぽいキーワードやイメージやキャラクターを、なんでもかんでもぶち込んだパッチワークのようなアニメが現れる。
なんでもかんでもというとこがみそで、そのキーワードやイメージのどれかは見ている人の心に引っ掛かる。
そして、そんな部分を含んだ作品全体に共感する。
内向的なものならなんでもかんでもぶちこんで、だから何が言いたいのかと聞かれても、答えはおそらくない。答えなんかいらないのである。
作品の何でもかんでもぶち込みましたムードに酔えればいいのである。
酔える事に価値がある酒のようなものである。
そのキーワードやイメージやキャラクターは、おじさんの僕にとっては、現実の中ですでに通過した、懐かしくもあり恥ずかしくもあるどこか既視感のあるものなのだが、若い人には新鮮に思えるのかもしれない。
企画設定での『機動戦艦ナデシコ』に「自分探し」はないようだった。
だが、何でもかんでもぶちこめ感はある。
アニメで育った若い人達のどこかには引っ掛かる。
違いを言えば、『新世紀 エヴァンゲリオン』は内向的で自閉的であり『機動戦艦ナデシコ』の、何でもかんでも感は、騒がしくて明るい。
『エヴァンゲリオン』は大ヒットしたが『機動戦艦ナデシコ』もそこそこヒットしたようだ。
最近、世間では内向的で自閉的な、うつ病関係の話題が増えているが、『新世紀 エヴァンゲリオン』が、ヒットした土壌が、さらに広がってきているのかもしれない。
今、『エヴァンゲリオン』の新作映画が上映されているが、僕はあまり関心がない。
あれだけ知名度があればヒットするだろうし、何でもかんでもぶちこめ感に無理して決着をつける必要もないと思うからだ。
で、『機動戦艦ナデシコ』の話に戻れば、僕としては、何でもかんでもありの作品なら、『機動戦艦ナデシコ』に僕の脚本が混じっていてもおかしくないと、少しだけ安心したのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
脚本家を含め、自由業を目指す人は、経済的な成功はない……と最初から考えておくべきである。
結婚も子供も考えないことだ。
脚本家で、妻子を持ち、自分の家も持ち、銀行に預貯金があり、老後も安泰などというのは、奇跡的にラッキーな人である。
僕が脚本家と呼ばれるようになってから出会った脚本家志望や脚本家の方は、1000人を軽く超えると思うが、上記したようなラッキーな人は、10人もいない。
離婚して1人暮らしという人や、最初からずーっと独身という人なら、もう少しいる。
おおむね、女性脚本家は、主婦という職業に向いていないし、子育ても難しい。
小説家なら電話とパソコンとメールで仕事ができるかもしれないが、脚本家には打ち合わせの時間が不可欠である。
妻が脚本の打ち合わせに出かけている間、子供の世話をしてくれる夫など、めったにいないだろう。
それに、専業主夫を持てるほど、脚本家の収入はよくない。
子育てしながら夫婦安泰らしいという女性脚本家を知っているが、その希少さは1000カラットのダイアモンドにも比べられないだろう。
もともと家族のいる屋根の下で、物を書くという作業は難しい。
書けなくていらいらしている姿やなんにもせずにぼんやりしている姿を見せるのは、家庭の雰囲気をぶち壊すだけである。
仕事場や喫茶店のような書ける場所と時間を決めて、サラリーマンのように規則正しい生活をしている方もいるが、普通は無理だと思う。
書くものの発想は、いつ出てくるか分からないからだ。
そんな時は注意力散漫になるからといって、車を運転しない人もいる。
僕自身、ここ10年、1日3食をまともに食べたのは病気で入院した時だけだ。
それどころか、書く時には物を食べないタイプだから、1日何も食べない日もある。
そのくせ、煙草だけはぷかぷかふかす。
今の僕は断酒しているから酒は飲まないが、普通、脚本家はつきあいにしろ、気分晴らしにしろ、酒はつきものである。
ついつい深酒になるから、体にいいわけがない。
それに仕事がたてこむと睡眠不足になる。
寿命も長くないだろう。
最近、若い脚本家がよく亡くなる。
独身なら家族に心配をかける老後がないのが、救いかもしれない。
僕には妻子がいる。
そこそこ生活している。
しかし、自分の家はない。
仕事場も借りている。
で、年に1回は夢を見る。
家族がホームレスになって、さまよっている姿である。
この夢は、極めて現実的な夢であると、僕は思っている。
ここまで書いてもまだ、脚本家になりたいと思う人は多いだろう。
そういう人は、どんなにやめろと言ってもやめないだろう。
ここのところ、脚本家がいかに不利な職業かばかりを書き続けてきた気がする。
折角ここまで読んでいただいたのである。
これからは積極的に、脚本家を続けていく方法を考えていこう。
つづく
■第116回へ続く
(07.09.12)
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編集・著作:
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