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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第111回 「黄龍の耳」音で聞くアクション

 「黄龍の耳」は、色々趣向はあるもの、簡単に言って正義の超能力ヒーローが、悪と戦い、合間に魅力的な女性との官能シーンが入る青年向きの娯楽作品である。
 娯楽作品としては面白いかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもなく、特に重要なテーマがあるわけでもない。
 それだけに、アクションシーンと、ヒーローの前に現れる女性達の個性と、その女性達とヒーローの官能シーンが見せ場、音響ドラマとしては聞かせ場になる。
 本来、音響ドラマは、音と効果的な台詞で、聞いている人達のイメージで目で見えない部分を大きくふくらませてもらうのが本来のやり方だ。
 だが、この作品の多彩でスケールの大きいアクションシーンを音だけで表現すると、爆発音や銃声の効果音と音楽だけで、アクションシーンがみんな同じに聞こえてしまい、分かりにくいと思った。
 特にアニメやコミックに慣れた若い人には、視覚にうったえない聴覚だけではイメージをふくらませるのは難しい、と考えた。
 そこで思い出したのが、今はあまりはやってないが、講談という演芸である。
 講談は、語り手が1人で、物語の状況や登場人物の台詞から気持まで、べらべらと喋りまくって、物語世界を表現する。
 今、流行になっている、笑いやペーソス、情感を1人で観客に語り演じてみせる落語とも少し違った演芸である。
 もちろん状況だけを説明するナレーションとも違う。
 聞くものを巻き込むために、状況説明や登場人物に感情を込めて語るのが講談である。
 僕は「黄龍の耳」を、講談風にやってみようと思った。
 だが、アクションの状況をただ説明するだけでは、聞く者にアクションの緊張感や切迫感が響いてこない。
 だからといって、アクションの当事者が、自分の展開するアクションを口で説明しながら行動しているのでは、なんだか間が抜けているしスピード感がない。
 「黄龍の耳」にはナレーションのようにあまり客観的でなく、多少はアクションに関わりつつも、冷静にアクションを説明できる役どころが必要だと思った。
 都合のいい事に、このドラマには、ヒーローのお目付け役的存在で、彼を補佐し見守り、ヒーローがやりすぎないように絶えず彼に付き添っているシンクレア・ゴードンという歳上の女性がいた。
 この女性、ヒーローのお目付け役を自覚しているせいか、なぜかヒーローの性的魅力に目がくらまず、ヒーローに恋愛感情を抱かない。
 かなり冷静にヒーローを見つめている。
 ヒーローが恋愛などでやり過ぎると、あきれて、「あんたいいかげんにしなさいよ」と、つっこみを入れるような役である。
 「黄龍の耳」は、基本的にヒーロー(声・森川智之氏)とヒーローにべったりのヒロイン(声・久川綾さん)とお目付け役の女性シンクレア(声・平野文さん)の3人を主人公に展開していくのだが、物語の状況やアクションの様子はヒーローにつきそってアクションの現場にもいるシンクレア、つまりは平野文さんが語る事にした。
 平野さんは、アクションの現場にいる当時者としてのナレーションだけでなく、登場人物でもあるから、シンクレア本人の感情のこもった内心の声(モノローグ)、そして登場人物としての他の出演者との会話を、全部やることになる。
 台詞は膨大な量になった。
 おまけに、ただのナレーションでなく、自分も巻き込まれているアクションの素早く細かい動きの説明も含まれる。
 たとえば、シンクレアが新幹線の中で銃を連射する時、「私は、カートリッジを入れ替えると、(カートリッジを入れ替える音)ベレッタM84の引き金を引いた。1発、2発、3発(銃声3発立て続けの音)……新幹線の揺れが気になったが、的確に弾は相手の肩を撃抜いた。やった! 相手が倒れる。あれ? 銃を撃ちすぎたのかな。手がしびれてきた。こいつはちょっとまずいかも……」
 これが台詞である。実際の時間は、カートリッジを入れ替えてから3発連射するまでの時間だ。30秒もない。
 それを表現するには、台詞を凄まじいスピードで喋らなければ、リアルさがでない。
 僕自身、こんなに短い時間を表現するのに、こんなに長い台詞を書いた事がない。
 だから、脚本の量も、通常の1.5倍ぐらいあった。
 その増えた分はほとんど、平野さんの、ナレーションも兼ねた台詞の部分である。
 平野さんは、声優ができる限界に近いスピード……といっても、僕は声優の喋る事のできるスピードの限界を知らないが、いまだに「黄龍の耳」の時の平野さん以上に喋りまくる声優の演技を聞いた事がない……を、見事にこなし、シンクレアという役柄の性格まで充分表現してくれた。
 ヒロイン役の久川さんがふだん清楚で、ヒーロー相手の時だけ恥ずかしげに恋愛相手になるという、まったりとした演技をしていたから、余計コントラストがついて、平野さんの喋りが目立った。
 もともと音響監督の斯波氏が、シンクレアの役は重要だという事で、ビデオアニメの声優さんを変更までして、あえて実力派の平野さんを起用したらしいのだが、それが見事にはまったのである。
 僕自身は、平野さんとの作品は「黄龍の耳」が初めてだったが、平野さんを知らなかったわけではない。
 平野さんの代表作に『うる星やつら』のラム役があるが、その『うる星やつら』の脚本で、2度ほど僕に声がかかった事があった。
 1度はTV版が始まった頃の初期、2度目は、映画版の2作目である。
 どちらも諸事情で実現しなかったが、映画版はかなりぎりぎりまで僕の脚本どおりでやる事になっていた。
 余談だが、この脚本(といっても完成していないプロット段階だが……)、自分のやりたい事をしたかった個性的監督の深慮遠謀で――深慮遠謀とは、僕の表現ではなく、プロデューサーや監督ご本人が、それらしい表現を使ったらしい――使われなかった。
 実際の話、僕の脚本を使っていたら、作品は監督の個性とぶつかってぐちゃぐちゃになっていたろう。
 僕は、プロット段階の原稿で映画1本分のギャラはもらったし、その監督の思いどおりに作った作品もかなりの評価を得た。
 だから、それでよかったと僕は思っているが、僕の脚本で了解していた原作者や編集者は、作品のでき上がりを見て、かなり怒ったらしい。
 そんないきさつもあって、当然、僕は『うる星やつら』のラム役の平野さんを意識していたし、実力のある人だとも思っていた。
 いつかなんらかの作品をやりたいなとは思っていたが、偶然とはいえ「黄龍の耳」で実現したので、そういう意味でも音響監督の斯波氏には感謝している。
 僕としても、平野さんならできるだろうと思って、猛スピードで喋る台詞をあえて書いてみたのである。
 本来、音で聞く人のイメージを喚起させる音響ドラマとしては、内容を喋くりまくって、イメージを具体的に説明するのは邪道かもしれない。が、大きなアクションシーンを表現するにはこうするしかないと思ってやってみた。
 もちろん、効果音も大切だから、新幹線のアクションシーンを書く時には、実際の新幹線の音と、舞台になる2階建てグリーン車両の様子を知るために、京都まで「ひかり」で往復したりもした。でも、結局、僕が選んだのは、アクションを喋りまくるという方法だった。
 ただこの方式を続けると、パターンになるし、展開がだれ気味になりかかった事も確かである。
 それに、アクションやストーリー展開が聞いて分かりやすいように、全6部の後半は原作からはなれたオリジナルの部分もかなり付け加えた。
 後で、音響監督の斯波氏から、音響版「黄龍の耳」は西洋風講談だな、というような感想をいただいたが、それが誉め言葉なのか古い講談形式を持ちだしてきたという皮肉なのか、そこのところは、よく分からない。
 ともかく、6話分のアクションエピソードは、講談調のべらべら喋りまくる台詞で、なんとか乗り切ったが、もうひとつの重要な聞かせどころともいえる官能場面……いわゆるベッドシーンはそう簡単にいかなかった。
 官能場面をどう音だけで表現するか……僕は考え込んでしまった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本をアニメを作る共同作業のひとつだと割り切れる人は、それはそれでひとつの脚本家の生き方だと認めざるをえない。
 だが、共同作業は、それぞれの分野の個性のいいところばかり出てくるとは限らないことも忘れてはならないと思う。
 企画や脚本の打ち合わせや本読みは、普通、個性と個性のぶつかり合いにならない場合が多い。
 僕も今までの経験上、喧々諤々、みんながそれぞれの個性を主張してけんか腰の会議など、めったに見た事がない。
 だいたい和気あいあいで、思いつきの意見を言い、発言力のあるその会議のメンバーの偉い人がいれば、その人の意見がそのまままかり通る場合も多い。
 脚本家は、色々な人の意見を、そつなくまとめるか、発言力のある偉い人の思いつきの代筆屋になってしまう場合も多いのである。
 脚本家本人が、それでいいと思っているなら、僕は何も言うことはない。
 ただ、脚本とは、基本的に個人が机に座って原稿用紙かパソコンに書いていくものである。
 どうしても、書いていくうちに、自分のオリジナリティが、共同作業と割り切ったはずの脚本を書く行為の邪魔をする。
 そんな気持を押し殺して書けるのが、プロの脚本家という事になる。
 結果、自分の個性の薄い脚本ができる事になる。
 それでいいのなら、それでいいのである。
 後は、絵コンテ、演出、監督、それぞれの専門家にまかせればいい。
 脚本は作品の設計図だから、絵コンテや演出や監督にアニメは共同作業だと割り切れない個性的な人がいない限りは、没個性の脚本どおりの没個性の作品ができあがる。
 だが、往々にして、個性的な絵コンテや、演出や、監督をしたがる人がいる。
 そうなると、脚本に手を入れられて、書いた脚本と違うものができ上がる。
 しかし、脚本はすでに書き上げたのだから、後はどんな作品になろうと気にしない。
 「脚本をこんなにしやがって……」と、ぼやきのひとつふたつは言うかもしれないが……。
 それも脚本家としての生き方で、否定しようとは思わない。
 近年は、オリジナル作品が少なく、小説やコミックやゲームを原作にしたアニメがほとんだといっていい。
 アニメも商売だから、すでに知名度のあるファンのいる作品の方が、誰も知らないオリジナルよりも売れる可能性がある。
 だから、オリジナルのアニメは、どんどん少なくなっていく。
 あまり、原作とかけ離れると、ファンの不評ばかり買って、アニメそのものが売れなくなるから、原作どおりの作品が望まれる。
 脚本家のオリジナリティは、ますます、必要なくなってくる。
 原作どおりの脚本、共同作業を前提としたアニメの脚本作り……今のアニメにオリジナリティのある脚本家は極論すればいらないということになるのだが……。

   つづく
 


■第112回へ続く

(07.08.15)

 
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