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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第109回 シリーズ構成、やーめた。

 『(超)くせになりそう』を終えた僕は、TVアニメに対しては、ほとんど燃えつき状態だった。
 『アイドル天使 ようこそようこ』『魔法のプリンセス ミンキーモモ』海編、『(超)くせになりそう』と、一般のアニメ脚本からしたら普通でない……つまり僕からすれば実験的な試みの多い作品を連続してやったのだから、消耗しても仕方がなかったのかもしれない。
 幸いだったのは、これらの作品の監督がアミノテツロ氏にしろ、湯山邦彦氏にしろ、えんどうてつや氏にしろ、できてきた脚本を面白がってくれたらしい事。まともな展開のシリーズでないだけに、アニメはこうあるべきという正論に固執する懐の狭い監督なら、これらの脚本に対して異論、反論がいくらでもできたはずなのに、むしろ、自分たちにとってもやりたかった実験だと思ってくれたのかもしれないが、でき上がってくる脚本に対して、文句もほとんどなく楽しそうに監督してくれた事である。
 どの作品も、歌が欠かせない作品だったが、その作詞者に本来の作詞家や脚本家だけでなく監督の名が多いのも、それぞれの監督が、担当した作品を楽しみながら、乗り乗りで作ってくれていた事を物語っている気がする。
 プロデューサーやスタッフ、声のキャストの皆さんも、この奇妙な作品群を面白がってやってくれたらしいことも、作品をより楽しいものにしてくれていた気もする。
 なにより、毎回のアフレコに脚本家が立ちあうのを、気楽に許してくれた音響監督の方達に感謝したい。
 作品の入り口である脚本と、最終段階のアフレコが接触する事は、脚本家が書く登場人物に、キャストの声優のイメージを重ね合わせる事ができ、脚本家の中の登場人物像をふくらますのに役立った。
 あれから、十数年経った現在でも、アフレコ現場に立ちあう脚本家は少ないようだが(昔はほとんどいなかった)、自分の書いた脚本でなくても、関係するシリーズのアフレコには無理をしてでも行くべきだと思う。
 ただ漫然と見学するのではなく、自分の書く脚本により具体的なイメージを加えるためにアフレコに参加するのだ。
 必要とあれば、時間を見つけて、声優さんと登場人物について意見交換してみるのも役に立つ。
 声優さんの生身の個性を、脚本に反映させる事もできるからだ。
 僕独自の考え方かもしれないが、脚本家の役目は、脚本を書き終えて終わるのではなく、作品自体が完成するまで終わらないと思っている。
 さらにいえば、生身の役者が演じる実写と違い、声優陣を指揮する音響監督も、アニメの監督と同様なほど、重要な存在である。
 理想としては、脚本家もアニメの監督と同じぐらい音響監督を意識すべきだと思う。
 なにしろ、自分の書いた台詞を声にして出す声優さん達の元締めのような立場の人である。
 通常は、監督と音響監督との間で、声の演出は決められるようだが、そこに脚本家がいても、出しゃばりだと僕は思わない。
 もっとも、現実は、脚本家は脚本を書き終えればそれで終わり、という考え方が普通のようだ。
 つまり、僕のやり方は、常識的なアニメ脚本家からすれば、異端だという事になる。
 そんな事を続けているのだから、肉体的にも精神的にも疲れるのは当たり前だが、そういう脚本の書き方、シリーズ構成のやり方が身についてしまっているから、どうしようもない。
 なにしろ僕は、脚本の書き方からして普通と違うらしくて、アニメ脚本文法というものがあるとすれば、それからは、かなりはずれているらしい。
 昔、監督の湯山邦彦氏からいわれた事があるのだが、「首藤さんの脚本は損な脚本だ。読んだだけだと、いい脚本なのか悪い脚本なのか分からない。作品ができ上がっていい脚本だと分かる」と。
 つまり、字面だけ追って読むとよく分からない脚本で、作品にしてみると脚本のよさが分かってくるというのだ。
 プロデューサーや監督には、字面だけ追って脚本を読む人――つまり、脚本が読めない人――と、脚本を読んででき上がる作品を想像できる人――つまり、脚本の読める人――の2種類がいる。
 運がいい事に、『(超)くせになりそう』まで、僕は脚本の読める人にばかり出会ってきたようだ。
 『(超)くせになりそう』までは、脚本に対して、ほとんど苦情を言われた事がなかった。
 もっとも、文字で読んだ首藤剛志の脚本はわけが分からないが、でき上がった作品が面白いから、何も言わないでおこうと、放っておかれたのかもしれない。
 要するに、『まんが世界昔ばなし』の「かしこいコヨーテ」を読んで、突然吹き出して笑った葛生雅美監督や、実写の「アイ ラブ ナッキー」「GOGO! チアガール」のプロデューサーや監督からも面白がられ、その後、わずかの作品を書いただけでシリーズのメインライターやシリーズ構成という脚本全体の責任者になってしまっていたから、以来「超くせになりそう」まで、ほとんど、脚本の初稿でOKがでるものばかり書いていた。
 いわゆる普通の脚本の書き方や文法など気にもしていなかった。
 プロデューサー運もよかったし、監督運もよかったのだろう。
 僕が実験と称する作品群も、プロデューサーや監督の誰かがノーという意思表示をすれば、どれも実現しなかった類の作品だと思う。
 結果としては、アニメ全体から見ても、作っておいてよかった作品だと思う。
 このコラムを書くために、全部の作品を見返しているが、絵や動きに古さを感じるものの、自画自賛するようで恥ずかしいが、今見ても充分面白いのに、自分でも驚いている。
 50代の僕ではもう書けないような台詞やストーリー展開が満載されている。
 多分、その面白さは、数十年先に見ても変わらないだろう。
 ただ残念なのは、これらの作品の後継となるようなTVシリーズが、僕の知る限り、見当たらない事だ。
 毎年、山のように生まれてくるTVシリーズの中で、これらの作品は、いまだに島宇宙のようにぽかりと別世界に浮かんでいる気がする。
 あるプロデューサーに皮肉交じりに言われた事がある。
 「あんたは孤高で1人でやってなさい。誰も真似できないし、真似しようともしないだろうし……」
 ある脚本家からも言われた。
 「正直に言って最初は首藤さんの真似をしようと思った。でも、とてもできないから止めました」
 この言葉には、結構、参った。
 実は、実験、実験といいながら、それをやってしまうある種の首藤色に、僕自身、疲れて飽きてもきていた。
 それに、僕の関わった作品が他のアニメから孤立して見えるなら、僕のシリーズ構成に慣れた脚本家は、普通のアニメ脚本家として孤立してしまうだろう。
 もちろん、数は少ないが、僕のシリーズ構成作品の中で、僕が手を加えないでもしっかりその脚本家の世界を構築できていた人もいる。
 その脚本家達は、僕とは関係ない確固たる個性で脚本が書ける。
 事実、現在の2007年時点でも活躍している人達である。
 だが、そこまで自分の世界を確立している人は多くない。
 そんな人には、真似のできない首藤色はかえって邪魔である。
 もともと『アイドル天使 ようこそようこ』の頃から、なまじなプロの脚本家より、脚本を書いた事がなくても、発想の面白さを重視して、素人に脚本を書いてもらった事のある僕である。
 普通のプロと呼ばれる脚本家の書いたものは、直しても面白くならないが、素人の書いたものは直せば面白くなる。
 発想の面白さが技術より優先するという考え方を僕はする。
 器用に技術で読みやすく書いたプロの脚本を、僕は面白いと思った事がない。
 本読みの会議を通すために技術でごまかした脚本だとしか思えない。
 だが、そんな脚本が主流だとすれば、僕のシリーズ構成する作品は異端である。
 主流が新人脚本家を育てるのはいいが、異端で育った新人は、あくまで異端だ。
 主流の方法になじめず、かといって、異端である首藤色でやれるはずもない。
 僕のシリーズ構成から、プロの脚本家は生まれない。
 僕のシリーズ構成法は、脚本家になろうとする人達にはかえって迷惑な存在なのかもしれない。
 『(超)くせになりそう』にも原作があったように、当時からオリジナルの企画は少なくなっていた。
 『(超)くせになりそう』だからできた自由も、他の原作でできるとは思えなかった。
 原作通りに脚本を書くのなら、僕流のシリーズ構成はそれに向いていない。
 ちょうど同じ頃、10年間続いて書いていた「永遠のフィレーナ」という小説も全9巻で完結し、その疲れも頂点に達していた。
 TVアニメシリーズでやろうとした実験も『(超)くせになりそう』で終わった。
 僕はTVアニメ、つまりはシリーズ構成からしばらく離れる事にした。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 今年亡くなったアニメ脚本家星山博之氏の遺作とも言える「星山博之のアニメシナリオ教室」(雷鳥社刊)を読んだ。
 星山氏と一緒にやった作品はないが、アニメ脚本家グループの野球や、釣りの会、温泉旅行などで、親しくお付き合いさせていただいた仲である。僕の仕事場に遊びにきていただいたこともある。
 温和で誠実な方だった。
 今年の脚本家連盟の動画部会でお会いした直後にお亡くなりになったそうで、もともと痩せ気味の方が、さらに痩せたように見えたのが気になったが、いつもの温和な表情は変らず、いまだに亡くなった事が信じられないでいる。
 さて、読ませていただいた「星山博之のアニメシナリオ教室」だが、シナリオの入門書は山ほどでているが、アニメシナリオに限っての本はそうは多くなく、今のところ最新の入門書である。
 星山氏らしく誠実に書かれ、親切にも、ギャラや著作権、自己管理の方法、スケジュールつまりは締め切りは守れなど基本的な事まで指摘してくれる丁寧な本である。
 今のアニメ脚本家の置かれている状況など、まさに最新のもので、それだけでも読む価値はあると思う。
 肝心のシナリオの書き方だが、具体的で、僕も頷く点が多い。
 僕のような異端ではなく正道を語ってくれている。
 特に外国映画を手本にしろなどというくだりは、おおいに同意したい。
 ただ、他の入門書と同じだが、この本を読んだからといって、すぐ脚本家になれるというわけではない。
 ある程度、脚本を書いた事のある新人の人が、脚本家としての自己確認をするためには最適な本だと思う。
 ただ、この本、星山氏と僕との脚本家になる育ち方の違いを感じさせてくれもする。
 つまり、動画会社という組織の中から頭角を現し育った脚本家の星山さんと、たまたま書いた脚本が認められ、本人がさして望みもしないのに、流れに乗っているうちに脚本家と呼ばれるようになった僕との違いである。
 星山氏は、脚本家をアニメを作る共同作業の一員として、脚本家のやるべき範囲をきちんと書いているが、僕はアニメが共同作業である事は認めるが、脚本家のやる範囲についてはアバウトである。
 アニメをみんなで作るという共同意識が僕には希薄である。
 どちらかといえば一匹狼で、やれる事は全部やりたい。
 だから、脚本家という役割以外のことでも口を出してしまう。
 星山氏の場合は、企画をみんなで話合って決め、役割分担として脚本を書き、シリーズ構成をする。演出は演出の役割分担があり、監督には監督の役割分担がある。
 要するに、組織としてのアニメ作り……その中の脚本家のあり方を語っている。
 今のアニメ作りは一種のプロジェクトである。
 組織として動くのだから、役割分担がはっきりしている方がやりやすい。
 だから、星山氏の書かれている事は、理にかなっている。
 しかし、それでは、脚本家のオリジナリティはどうなってしまうのか?
 星山氏はこのようなことを書いている。
 脚本に対して演出、作画、美術などの専門家が創意を振り絞って取り組むのだから、実際の作品は脚本家の頭の中にあったものとは違ったものになる。星山氏は、「80パーセント変えられても星山が書いたものだと分かる」シナリオを作る事を目指していた。
 僕の場合なら、「80パーセントも変えられたら怒り狂い、シナリオを破って、ギャラだけもらってその作品から降ろしてもらう。名前は消してもらう」である。
 で、現実は、星山氏のような脚本への対し方が、正しい。
 アニメ作品が大きなプロジェクトの一部分になり、そのプロジェクトが巨大になればなるほど、星山氏の正しさは明解になってくる。
 僕は『ポケモン』というアニメぐるみの巨大なプロジェクトに関係した時、それを痛感した。

   つづく
 


■第110回へ続く

(07.08.01)

 
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