β運動の岸辺で[片渕須直]

第134回 空を飛びわたるものの夏

 それこそ『魔女の宅急便』以来の懸案だった『アリーテ姫』が完成して、フィルムの形になりはじめてくると、ずっとずっと頭の中のかなりの部分を占め続けてきたものを片づけるときが来た感じがした。
 かわって、それこそアリーテのように「この次には何をしようか」考えるときが来たのだ。
 ちょっとくらい趣味を持ってみるのもよいのではないか、という気もした。

 趣味。
 模型雑誌をパラパラめくったりしていると、あいも変わらず「零戦はほんとうは何色に塗られていたのか」という記事が載っていた。国産機として最大の生産数実績(1万機以上)を持つ零戦という飛行機の機体に塗られていた色調がやっぱりわからない、という。やっぱり、というのは、ずっと以前から同じようなことが述べられ続けてきた経緯があるからだったのだが。
 以前からいわれてきた「明灰白色」説、「明灰緑色」説に加えて、この頃には「飴色」説まで登場しており、あるいは、外国の研究者が現存する零戦の残骸片を組立工場別、生産番号順に並べてみたり、そのことと複数存在しているかもしれない機体の色調と関連づけようとして、泥沼にはまっていたりもした。
 昔からカラーチャートみたいなものを眺めるのが好きな性分だったので、こうしたことについて自分なりに考えてみるのを「趣味」とするのもよいかもしれない、と思ってしまった。
 2000年の秋にはまだパソコンはもっていなかったのだが、以前にも書いたインターネット通信ができるワープロというのを持っていたので、ちょこちょこ検索してみて、古峰文三という人(この頃はまだこの筆名は使っていなかったのだが、便宜上)と知り合うに至った。
 古峰氏はちょっと独特な資料の調べ方をする人で、過去のことを眺め見るのに、一次史料(調べる対象となる当時に書かれたもの)をできるだけ集めて、その中から文脈(コンテクスト)を見出そうとしていた。前に、戦国時代史の研究者で谷口克広という先生が、その当時の発給文書や日記といった一次資料だけを元に織田信長の家臣団について文脈を編み直した本を出されていたのを手にとっておもしろかったりしたので、近過去へ理解の手を伸ばそうとする古峰氏の方法もよくわかるような気がした。
 2001年の夏は、古峰氏が「零戦の夏」と名づけた暑い季節になった。古峰氏が防衛庁戦史室の図書館の所蔵資料を「底引き網」的に調べ上げては零戦の製造番号が記された記録を見つけ出し、こちらへ送ってもらって自分の手で整理して表にするという作業を延々繰り返したのだった。同時期のアメリカの飛行機では製造番号リストもかなり詳しい形で残っていたりするのだが、終戦とともに多くのものを燃やしてしまった日本では、そうしたことも望めなかったのだった。こうして作り上げた零戦の製造番号リストは出版物の上で発表した。
 そうして、この機種の生産実態について、自分たちの中に文脈を築き、次いでさらに見つけだしていった様々な資料から、あるいは知り合った人たちの知見を総合して、零戦の機体表面に塗られていた塗料の色名は「灰色」、使用顔料として亜鉛華とカーボンブラックだけを使う無彩色、しかし、塗面が風化していわゆる白亜化(チョーキング)を起こして明灰白色的な色合いになったり、あるいは塗料としてのベース成分であるベンジルセルロースが黄変して初期には灰緑色、さらに黄変が進むと飴色に変わってしまう、というあたりまで突き止めるに至る。
 何か具体的な物事を考えるとき、表面的な事象だけをいくつか蒐集して何かを述べるのではなく、うーんと裾野を広げて全体像を眺めて、その中からコンテクストを読み取って、はじめてイメージを得る、という方法論が自分の中にできあがったのは、やがて本職の上でも役立ってゆくことになる。『マイマイ新子と千年の魔法』などでは、平安時代の少女像をイメージするためにえらい量の本を積むことになってしまった。この方法だと、どうしても本や資料コピーの山脈ができてしまうが、どうしようもない。

 などということに手を染め始めていた2001年の中頃には、仕事の机はまだ吉祥寺のスタジオ4℃に置き続けていた。
 ある日、突然2人連れの青年たちがここを訪ねてきた。
 プロデューサーの田中栄子さんは、彼らの話を少し聞いて、
 「片渕さんをここへ連れてきて」
 と、制作のスタッフにいった。どうも、対応するにあたって適任者だと思われたらしい。
 訪問者は一柳宏之さんと河野一聡さん。
 ふたりはゲームメーカー・ナムコのプロジェクトディレクターとアートディレクター、これから作ろうとしているのは戦闘機のゲームだった。

第135回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(12.07.09)