β運動の岸辺で[片渕須直]

第130回 寿司以外の食べ物が考えられない

 動画机で取り囲んだ場所に陣取っているあいだ、誰からも口をきかれなかったので、助かった。ストーリーの作業に没頭しているときは、頭の中がそれだけになってしまう。別のことで話しかけられたら、糸が途切れる。元の作業に戻ろうとしても、一度見失った糸の先は見つからない。
 色彩設計の林さんだけは、ときどき「陣地」にやってきては、
 「色を見てくれ」
 といった。スケジュールのことを心配する彼女はすごく怒った顔をしているので、こればかりは従わざるを得ず、下の階に降りて暗幕で囲まれたマスターモニターの前に戻る。
 やがて、約束の2週間が過ぎ、それていた脇道から『アリーテ姫』に復帰することができた。そこから先はあともう一歩。

 やがて画完パケが近くなってくると、ダビングの作業も近づく。これまでに別々に作ってきた「台詞音声」「音楽」「効果音」をミキシングする作業だ。単に音だけを組み合わせるのではなく、画面とシンクロさせて映画的な仕上がりを見極めつつ行わなければならない。いろいろな音の音量、その出るタイミング、ステレオ空間上の位置、組み合わせ方による演出的な効果などなど。
 したがって、ダビングは画面を大きなスクリーンに投射しつつ行うことになる。『アリーテ姫』では日本橋浜町の東京テレビセンター、通称「テレセン」で行うことになった。思えば『魔女の宅急便』のダビングもここで行ったし、『あずきちゃん』のアフレコ、ダビングもテレセンだったので、勝手知ったる場所でもあった。ここのスタジオを5日だったか6日間だったか、それくらい借りて行う(どうも、この日数の記憶があいまいになっている)。
 音響監督・早瀬博雪(音響映像システム)、整音・大石幸平(タクトスタジオ)、効果・西村睦広、テレセンの門倉徹さんたちエンジニアの方々、それに監督である自分というメンバーで、このスタジオに篭ることになる。制作・千住さんが別スケジュールがあって参加できなかったため、音楽に関してはこちらに一任されている。効果の西村君も別の仕事とスケジュールが重なってしまったため、音の仕込みまでやってもらって、現場での出しと調整はなんとフィズサウンドの社長である原田敦御大に行っていただく。

 たしか、作業は、DAT(デジタル・オーディオ・テープ)に入って持ち込まれた音楽を、ダビング用に取り込むから始まった。この日は取り込みだけだったので、ダビング用のスタジオではなく、もっと小さな部屋を使った。この夜、音響プロデューサーの会田昌克さん(音響映像システム)から、夕食に寿司を差し入れてもらったことはよく覚えている。そこいら辺の持ち帰り寿司ではなく、銀座あたりのちょっと上等なものだった。トロがたいへん美味しかった。こういうことはよく覚えているのだから、現金なものだ。
 スケジュールを管理する制作が1人も来ていないので、自分たちで時間の使い方を決めていかなくてはならない。
 この日は素材の取り込みだけで終えて、2日目から大きな部屋を使って、ロール1から画面と音を合わせていこうということになった。

 2日目。作業を始めてみて、ちょっとたいへんなことになりそうだとわかった。テレセンのダビングスタジオの調整卓が、デジタル化した新品に換わったばかりで、『アリーテ姫』がこれを使う2作品目ということだったのだが、この機械がとにかくよくダウンするのだった。テレセンの名誉のために付け加えるが、新しい調整卓を導入したばかりなので、初期的故障がまだ払拭されていない時期に、こちらがスケジュールを割り込ませてしまったためなのだった。
 今ではどこの音響スタジオでもごく当たり前なものになったデジタル調整卓は、様々な音のレベルを調整するミキサーの指の動きを記憶して、二度目からは全自動で一回目と同じ動きを再現してくれる。スライダーがするする勝手に動く様は、なかなか未来的だった。
 が、しばらく作業が進むうちに、ミキサーの大石君が「?」という顔をする。テレセンのエンジニアの人たちも「?」「!」となってゆく。このあたりは表情ばかりで進展するので、内容に没頭している自分などは、ちょっと事態から取り残されてしまっている。気がつくと、周囲のあちこちでため息が起こっている。
 「あれ?」
 っと、ようやく気づくと、
 「はい、またダウンしました」

 どうにも仕事がはかどらない。3日目くらいからはダビングスタジオへの泊り込みになることを覚悟していたのだが、それを1日早めることにした。これは監督として自分が決定した。
 全員、帰れなくなった。着替えの下着も、歯ブラシも何も持ってきていない。ただ会田さんだけが、夕食の差し入れに来てくれる。
 「明日は何がいいですかね?」
 と、会田さんがリクエストを取ってくれるのだが、人間、くたびれてくると脂っこいものを受けつけなくなってゆくのだった。
 「寿司! あっさりした寿司!」
 「それ以外のものはもう思い浮かべたくもない!」

第131回へつづく

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(12.06.11)