β運動の岸辺で[片渕須直]

第117回 例えば獣医のように

 先日、うちで飼っている犬がリンパ腺を腫らし膨れたところをどこかで擦ってしまったらしく、肌が赤剥けになっていて、仕方ないので夜でも開いている動物病院を探して訪れた。応対してくれた先生は、「動物病院」という都会の住宅地的な雰囲気よりもいかにも「獣医」という感じの似合う、裸足にサンダル履きの野人的な風貌の人だった。
 そこで、「これなんですが」と、ワン公の腹を見せたところ、ゼロ・コンマ数秒眺めた獣医の先生は、瞬時に、
 「〜〜」
 と、症状名を口にするのだった。
 ついで、獣医の先生は続けざまに、
 「〜〜。〜〜。〜〜。〜〜」
 と、明らかに日本語ではない呪文めいた言葉を、大きな声で並べ立てる。ここまでが診断で、おおよそ(自分の体感では)8秒くらいしかかからない。
 その次に、どういう症状であるのか、「ここ触ってみて。丸い腫れの頭があるでしょ? 腫れはここから縦に伸びるんです」と、こちらの指先を導かれたら、本当に犬の腹の皮膚の下に丸いグリグリがあった。そうして具体的な説明をしたのち、処置に移るのだが、どうもいくつか並べ立てられた「呪文」は処置法か投与する薬の名前だったらしく、その順番に実行されてゆく。
 人間の医者でいうと映画に出てくるいかにも海千山千の外科医の典型的キャラクターみたいによれよれな感じでありつつ、どうもどこかの学部で教授もされたらしく、声がデカくて、周囲に聞こえよがしであるのは、診断・治療と教育を兼ねた現場にいたからなのだろう。

 などということを今回書いているのは、アニメーションの演出における原画チェックの雰囲気を察してもらいたいからだったりする。絵コンテと作画打合せという形で、目的を伝え、表現方法を提案する。それに沿って上がってきた原画をチェックすることになるのだが、色々な観点からこれを精査してOKを出していかなければならない。場合によってはOKといえる形になるまでに、修正が必要な場合もあるだろうし、仕上面、カメラワークその他のことで演出側が補っておかなければならないこともある。
 修正するにしても、補足作業を加えるにしても、まず、そうしたポイントのあるなしを判断しなければならない。これを可能な限りゼロタイムに近く行わなければならないのだが、実は、原画とタイムシートをチラ見しただけでも、それは可能であるともいえる。
 というところで、前回からの続きの「できるだけすばやく行う原画チェックの方法」についての話になる。
 獣医さんが「診断」「処置法の構築」「処置」という3段階の手順で進めているのだとしたら、最初の判断の部分は突破可能だ。これはこちらがどれだけ海千山千であるかだけにかかっているといっても過言ではない。
 そしてまた、「処置」の部分は、原画マンの方に相談して直してもらうことになるだろうし、あるいは作画監督に頼るという逃げ方もできる。
 実は、「処置法」を構築して並べ立てるのが一番時間がかかる部分だったりするのだった。先日の夜の獣医さんみたいに、瞬時に「〜〜。〜〜。〜〜。〜〜」と口にしてゆくことができる場合も、純技術的な部分に関してはもちろん多いのだが、ことがいったん「表現」めいてくると、これが「ああでもない、こうでもない」という逡巡の世界に陥ってゆく。
 最初の「診断」の部分にQARを使わなければならないとしたら、アニメーションに関わる上で本来必要であるはずのスキルの重要な部分が欠けていることになってしまうのかもしれない。だが、自分としては、その次の部分を突破するために、QAR多用という戦術に出ようとしていたのだった。

 QARとも呼ばれる「クイック・アクション・レコーダー」とは、撮影関係の技術屋さんである株式会社ナック(現・株式会社ナックイメージテクノロジー)が、1970年代に開発したデジタル機器で、1980年頃、自分が大学生だった当時、大学のアニメーション室にもすでに1台入っていた。ある日、講師の月岡貞夫さんから、
 「これの売り込みにさ、札幌に行ってくれない? バイト、バイト」
 と、QARの営業のデモンストレーションのバイトを斡旋されそうになり、人前で動画を描く度胸もなかったので辞退したこともある。
 機械としては、動画(もしくは原画)を置いて撮影するライトテーブルとカメラがセットになったものがまずあり、これを処理する本体の箱があり、コントロールするキーボードがあって、6インチくらいのブラウン管モニターがふたつついていた。
 ライトテーブルの上に動画(もしくは原画)を載せて、撮影すると、映像は白と黒に二値化されて(データとして軽くして)取り込まれる。
 ワンレイヤーなので、別々にとったものを重ね合わせることはできない。だが、どうしてもセル重ねになってるものを重ねて見なければならない場合もあったので、そういうときは、ライトテーブルの蛍光灯で透かして一発撮りした。動画1枚ずつそれぞれについてそれを何コマ表示するかキーボードから入力して指定してやることはできたが、AセルもBセルも重ねて撮ってしまっているので、それらを別々にタイミングを変えてやることはできなかった。呼び出しは撮影順で、前後の入れ換えもできたのかもしれないが、ちょっと面倒なので使わなかった。
 現場の仕事についてからもこの機械は各所にあって、テレコムの頃にも『名犬ラッシー』の頃にも有効に使うことはできていたが、前のところで挙げたような操作上の難点もあった。
 とはいえ、こちらとして『アリーテ姫』の原画チェックを全面的にこれで行いたい、と希望を出したのだが、もっといいものができている、という。『アリーテ姫』のときには、さすがに本格的なデジタル化の時代を迎えていて、パソコンで操作できるソフト「QuickChecker」が株式会社セルシスから出始めていたのだった。
 4℃のCGI部にセルシスとコネクションがあるスタッフがいて、この新しいQuickCheckerの試供品を使わせてもらえることになった。「Ver.1.0」だったか「Ver.1.0.1」だったか、かなり初期のもので、バグ取りも完全にはまだ未済な感じだったように記憶するのだが、こちらが使ううちに改善されていったところをみると、自分たちが何かの役に立っていたのかもしれない。

第118回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(12.03.05)