β運動の岸辺で[片渕須直]

第108回 表現主義的流星の思い出

 生まれた家が映画館を営んでいたりしたもので、「映画はお金を払って観ない」という流儀がどこか染込んでしまっていたようだ。
 じゃあ、どこで映画を観てたのかというと、もっぱらTVだったりする。以前はTVが実に雑多な映画を放映してくれていて、よかった。あまり潤沢に番組編成できなかった頃の東京12チャンネルなんか、午前、午後、夜と1日のうちの3回も映画をやっていた。そんなふうに、フィルムを回して流しておけば間が持つ映画番組は、TV局にとってはお金をかけなくてすむ経済的な枠として重宝されてたのではないかと思う。当然、たいしたことない映画も多かったはずで、そうしてたまたま観たものの一場面なんかがずっと長いこと記憶の座の一部を占め続けたりするから不思議だ。
 ラジオもあった。ラジオで映画というと、最近では浜村淳氏の名調子なのだが、関東エリアで聴けなくなってから久しく、悲しい。
 もっと以前だと、「淀川長治ラジオ名画劇場」だったりする。そう、TBSラジオ月曜日夜8時からだった。
 自分が高校生くらいのとき、淀川さんがこのラジオ番組で、得体の知れない映画のことを述べていた。いくら聴いても、ストーリーの断片はわかっても全体像が見えてこない。「未知との遭遇」という題名だけはわかったので、映画館に観に行くことにした。たぶん、このときのおかげで、また映画館に足を運ぶようになってゆく。
 そこから今に至る間で仕入れた知識で整理を試みると、「未知との遭遇」という映画は表現主義的な映画なのだということなのだろう。あからさまに物語的でない部分が映画を作り上げているのだと思う。だから、ナラティブに物語を叙述しようとしても通用し難いのであって、淀川長治さんはその行間を語ろうとしておられたのだった。
 大学生になってアルバイトして、ビデオの録画機を買った。SONYのSL-J7だという話は、前に書いたと思う。そのときは、それで『ハイジ』や『母をたずねて三千里』を録画して観まくっていた、というようなことを書いたのだが、ほかにも、たまたまTV放映されたのを録画できた「七人の侍」「ジョーズ」なんかも繰り返し見ていた。大学で同級生だった安達瑶なんかから「ジョーズ」に入れ込んだ話を聞かされていたのだと思う。
 あらためていうまでもなく、「未知との遭遇」と「ジョーズ」は同じ監督の映画なのであって、「ジョーズ」なんかもナラティブな部分ももちろんおもしろかったが、表現主義的な面もおもしろかった。なんでもない空を、突然、流れ星がよぎったりするのだ。一応、あれがたまたま映り込んだものではないことはわかる。わざわざ合成されているのだ。「未知との遭遇」の裏話みたいなことで、スピルバーグは、子どもの頃、父親に突然起こされて、車で家から遠いところに連れて行かれ、そこで流星雨だったかを見たというのがある。なんだか、そういうことが記憶に残ってしまっていた。

 だいぶ時期が飛んで、『アリーテ姫』を作り始めた頃、(1998年より、1997年だった可能性のほうが大きい)に、しし座流星群が流星雨になるのではないかと期待されたことがあった。妻なる人に話したら、それはぜひ見に行かなくては、と彼女のほうが燃え立ち、寝袋やら何やら一式買ってきてしまった。
 どこへ見に行こうか、と考えて、南に向いている小高い斜面で、周囲に市街の明かりがないところを思い浮かべようとした。赤城山かねえ、などといって、結局、秩父東方に出かけることにした。
 車に家族と荷物を積んで、現地に着いたら、同じような人たちがすでにたくさんいた。
 子どもらも連れていったのだが、彼らはそのときのことを覚えてるだろうか。
 自分自身ははっきり覚えている。
 流星雨は出現しなかった。
 だが、大火球が空をよぎっていった。周囲で流星見物していた人たちのあいだに歓声が上がった。

 この話には、若干の続きがあって、翌日仕事に出て帰ってくると、ドアの前で家の鍵を持って出るのを忘れてしまっていることに気がついた。ピンポーンと鳴らすのだが、昨夜徹夜した家人は起きてこず、さらに公衆電話ボックスから家に電話しても起きてこない。仕方なく、庭に停めた車の中で寝ようとしたのだが、11月後半の夜は寒い、寒い。凍え死ぬかと思った。そのようなおまけがついたことで、しし座流星群の夜についての記憶は強化されている。

 流星は、『名犬ラッシー』のオープニングですでに使っていた。透過光でビカビカしたものを作ると、静謐な夜空にならないので、セルの塗りで階調のステップを作って、遠めに見ればグラデーションに見えるようにしてみた。
 実際に火球を見たあと、『アリーテ姫』でも流星を使ってみたくなった。『アリーテ姫』は、ハリウッド的ローラーコースター的にではなく、ヨーロッパ映画みたいな装いで作ってみたかった。制作費が潤沢に得られない状況では、そうとでも考えるしかなかった。ヨーロッパ映画の表現主義について考えようと、フリッツ・ラングなんかまで観たりもしたのだが、なんとなく容易なのは、その流れの川下にいるスピルバーグのことなど思い浮かべることだ。という文脈があっての、「流れ星」の登場だったりしてしまっていた。
 さて、『アリーテ姫』で流れ星をどう使おうか。
 考えるうちに、魔法使いボックスの背景がSF化し始めた。

第109回へつづく

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(11.12.19)