β運動の岸辺で[片渕須直]

第87回 黒いあしあと、白いあしあと

 この連載ももうずいぶん長くなった。
 いつも締め切りぎりぎりとか、もっとはっきりと締め切りを通り過ぎて書いてしまっているのだが、時々は奇妙な旅先で書いてしまっている。
 今回はカリフォルニア州アナハイムのホテルだ。アメリカの「日本製アニメ・漫画・音楽」愛好者のためのコンベンションで『マイマイ新子と千年の魔法』を上映してもらえる、ということでここまで来たのだけれど、明らかに彼らの好みのど真ん中をついているとは思えない『マイマイ新子』の結果がどう出るのか、全然予想がつかない。到着から丸1日経ったこれまでのところ、『BLACK LAGOON』という言葉の出る率のほうがはるかに高い。昨夜の晩御飯のテーブルの斜め向かいでは、「シューテム・アップ」なる二挺拳銃ものの映画を監督したマイケル・デイヴィスなる御仁が盛んに『BLACK LAGOON』のことをまくし立てていたし。それはそれで、オタクのコンベンションらしく、騒がしくって心地よいテーブルだった。
 ただ、なんだかあからさまにお呼びじゃない感じがしてしまうのである。『マイマイ新子と千年の魔法』がというより、『マイマイ新子』のその少し先にある何かに辿り着きたくて日夜もぞもぞを繰り返す最近の自分の心境としては。
 メディアのインタビュー対応もいくつかあって、中でこんな質問を投げられてしまった。
 「これまでアニメーションを作り続けてきて、一番よい思い出はなあに?」
 そうだな、と考えて、ついつい「『名犬ラッシー』の記憶の蓋を開けられるようになったこと」などと答えてしまった。そんなことおのれ1人のちっぽけな問題に過ぎなく、人に聞かせてどうこう言う話じゃないのはわかってる。

 『ラッシー』の2話の脚本が上がってきたら、即座に絵コンテに手をつけた。1話も2話も各話題名はついていなかった。それどころの暇もなかったのだ。
 あとで1話完成時にだったか、局側プロデューサーたちと「サブタイトルをどうするか?」という話になった。この頃のテレビアニメでは、やたらと「○○! ○○○○」みたいなサブタイトルが流行っていて、この途中に挟まるビックリマークが時に応じてクエッションマークだったり、ハートマークだったりした。そういうのが「キャッチー」だと思われていたのだった。『ラッシー』ではもう少し別の気の利かせ方、児童文学的なセンスに持ってゆきたいと思ったのだが、案の定、渋い顔をされてしまった。そこで口を開いたのが脚本の松井亜弥さんで、1話の内容をよく含みおいた上で、
「『ひとりじゃない』ってどうでしょう?」
 という提案があった。
 ひじょうに説得力があって、反対意見はなくなった。松井さんはこちらのやりたいことを的確に読み取り、全力で同じ方向を指向しようとしていたのだった。
 第2話は結局は否決されてしまったのだが、「黒いあしあと、白いあしあと」にしたかった。人間たちが仕事場や学校に向かってしまって、1人家の中に残された子犬が、はじめは暖炉の中ですすだらけになり、最後には台所で小麦粉だらけになっている、というお話だったもので。森康二さんの短編『黒いきこりと白いきこり』などというのも頭にあったし。
 実は自分で犬を飼うようになったのはここ最近のことで、当時は猫しか飼ってなかった。あらためて思い出すのだが、我が家のワン公も、子犬で家に連れてこられて、人間たちがみんな出かけてしまって独りぼっちにされた最初の日にはまったく同じことをした。飼い主がそこにいはしないかと階段を登って降りられなくなって、震えていた。うちの場合はちょっと問題が別で、登った先の寝室の布団の上でお漏らし(大)をしてしまって、黄色いあしあとになってしまっていたことだったが。
 同じことをこの2話のときに考えてしまった。子犬は階段を降りられないのだ。
 だもので、子犬のラッシーをお餅みたいにポヨンポヨンにして、ボールにして転がせ、弾ませて階段を降ろした。
 これについては、オールラッシュを見た田中真津美ちゃん(『ナンとジョー先生』のプロデューサー補。いつもちゃんづけで呼んできたので、ここでもすみません)が、真摯に「世界名作劇場でやってよい限界」について議論を仕掛けてきたりして、有意義な展開にもなった。多少のマンガ的表現を持ち込んでよいのか、日常の生活描写を担保するためのリアリティはどの辺に境目があるものなのか。自分としては、観客側の年齢層が下がるにしたがってできることも現れてくるのだと思っただけだった。マンガ的に、というよりむしろ「絵本的」な方向で。これはそのつもりだった。
 TV局の編制側は「ファミリー路線」を打ち立て直すためにこの企画を立案したわけだし、そこはそれ、背反する要素はない。場違いだなんて思わなければならないいわれはひとつもなく、実に自信たっぷりなものだった。

第88回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(11.07.04)