β運動の岸辺で[片渕須直]

第75回 萌えとの遭遇

 これは最初に『あずきちゃん』をやっていたころだったか、それとも、数ヶ月後にもう一度復帰した頃のことなのか記憶が定かでないのだけど、メインスタッフのコーナーに何冊かファンの方が作った同人誌が届いていたのを見た。
 舞台になっているモデルの場所と思われるあたりの風景の写真とか、主人公が住んでいる家の間取りを推定してみるだとか、色々がんばっておられた。原作もののアニメーション化の場合、我々も同じ過程を一度は踏みますからね、気持ちはよくわかる。

 そういえば、と思い出したのは、その昔のファン同人誌はやたらとスタッフへのインタビューが多かったこと。ファンの方々は機会多くスタジオを訪れてはそういうことをしていた。自分が読んだことのある『母をたずねて三千里』同人誌などでは、インタビューの冒頭、取材される側の高畑勲さんが「こんな学校のある時間帯に君たちはこんなところに来ていていいのか?」と小言を繰り広げ、執筆者のほうで「自分たちは大学生だから大丈夫なのだけど、どうも高校生と間違われてしまったみたい」と括弧の中で注釈されていたりした。ということは、当時は高校生の活動率もかなりのものだったのではないか、と今にしてうかがえるわけなのだが、自分なりの印象でいえば、高畑さんにとって高校生も大学生もあまりかわりなく、日中はちゃんと勉学に励んでいるべきだ、と思われたということではなかったのかという気もする。高畑さんは々インタビューの中で「『三千里』を見て泣ける? なんで泣くのか?」と反発してたりもしたが、むしろ大人の立場としてふつうにお説教垂れている感じでもあった。そのほかにも宮崎駿さんをインタビューした同人誌もあったし、もっとたくさんの人々がふつうに一般ファンから取材されていた時代だった。
 といっている時代とは、このコラムで述べているこの時点(1990年代なかば)からもうひとつ前の年代のことなのであって、自分たちがこうやって仕事をしている頃になると、ファンの世代も更新されたのか、スタッフインタビューみたいなことはほぼなくなり、自分たちは寄りつかれなくなっており、ファンはファンの側で独自にできることをする、という方向性に変わっていたような気がする。

 『あずきちゃん』のスタッフコーナーでこのとき目にした同人誌でひとつ覚えているのは「萌え」という言葉が使われていたことだ。実はこのとき初めて接した。何の予備知識も先入観もなかったその当時としてみれば、ほのぼのした小学生の恋愛ものを述べるにはなんだか適切な言葉のように思えたのだけど、15年経つとこんなになってるだろうとは、思いもしなかった。

 この頃、通勤用の原付はマッドハウスが入っているビルの裏手のほうに置いていたのだが、夜半帰ろうとするときなど、ときどき、ゴミのコンテナをゴソゴソ漁る人影を見た。そういや、要らなくなった設定も、コンテとか原画の描き損ねも構わず屑籠に捨ててたけど、ああやって持ち帰ってゆく謎の人たちもいたんだなあ。

第76回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
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(11.04.11)