β運動の岸辺で[片渕須直]

第56回 色々と再出発

 これより少し前の時期に、『じゃりン子チエ チエちゃん奮戦記』の現場で東京ムービーにも入っていたことがある。
 この頃の時系列を整えてみると、『紅の豚』の完成が1992年7月、ジブリの東小金井移転が8月、森やすじさんが亡くなったのが9月で、『チエちゃん奮戦記』の放映終了も同じ1992年の9月ということのようだからだから、たぶん、2回目のジブリの前半は東京ムービー通いとダブっていたのかもしれない。
 東京ムービーは、元はテレコムが入っていた新井薬師の線路端の建物に、テレコムが移転したあと入っていたので、なんだか久しぶりに古巣を訪れてしまったことになる。
 西側の階段を4階まで上ったところ、こっち側は大塚さんと自分とでずっといっしょに過ごした元会議室の台形の部屋、反対側は作画の全員が入っていた大部屋。その中間の階段室にはいまだにテレコム時代のスチール棚がひとつ残されていて、今は用なしになってしまった70ミリ版『NEMO』の巨大なレイアウト用紙と動画用紙が束のまま置き去りにされていた。この紙を作った頃、この紙でパイロット・フィルムを作った頃のなにがしかの期待感を思い出せば、なんともはかない格好になってしまっているように思えた。
 その後、東京ムービーに『名探偵コナン』その他の収益でお金ができたときに、この元は学校の校舎だった建物は取り壊され、新しいちゃんとしたビルに建て直されたのだが、おそらくは取り壊される直前まで、70ミリ用の用紙類はそこにあり続けたのだろう。もはや顧みる者も触れる者もないままに。

 そしておそらく1992年の12月だと思うのだが、ジブリの忘年会だったかの宴会が吉祥寺で行われたことがある。久しぶりに東小金井から吉祥寺に帰って、みたいな話だったのだと思うのだけど、吉祥寺の会場に集合するあいだに、誰かが横田和善さんを道で拾ってきた。横田さんを知らないような作画の若いのが引っ張ってきたのだと思うけど、よくまあ、連れてきてしまったものだと思う。
 横田さんは宮崎さんの隣の席に占位し、盛大に飲みまくった。横田さんの奥さんが経営していた飲み屋のマッチを宮崎さんがデザインしたとか、そういう古馴染みの関係の2人だった。
 横田さんの酔っ払いぶりは昔から有名で、酔っ払って仕事場の動画机を空手でぶち壊し始め、途中で正気に戻って、これはいけないと証拠隠滅のためさらに空手で机の残骸を粉砕して跡形もなくしてしまった、などの逸話をもつ。友永さんたちは横田さんのことを「カラテマン」と呼んでいた。
 横田さんは『チエちゃん奮戦記』の最後のほうで網膜剥離になりかけたことがあった。
 「え? 脳膜剥離?」と、思わず心配して問い返してしまったのは、この人の飲みっぷりがあまりにすごかったからなのだが、
 「脳膜じゃない。目、目。網膜」
 網膜剥離は突然押し寄せ、しかもそのときたまたま横田さんは運転中だったので「ちょっとまずかった」が、たまたまそこが早川啓二さんの家の前だったので、早川さんに運転してもらって帰った、などといっていた。いっていただけならよいのだけど、「そのせいでコンテが切れなくなった。あと、片渕くん、頼む」といわれて、なんだか仕事させられてしまった。
 それから数ヶ月ぶりなのだが、目の調子はよいのだかまだ悪いのだか、このジブリの忘年会でも飲み続け、怪気炎を吐き、するとそういうとき、となりにいる宮崎さんは情けなくにこにこしているしかなく、なにせ理屈が通用する域ではすでになくなっているのでいつもと違って反論もできず、あからさまに腰が引けてたじたじとなってしまっているのが見ていておもしろかった。宮崎駿にもっとも姿勢上「勝った」演出家は横田和善だと思う。

 そうしたなんやかんやの出稼ぎ仕事をひと段落させ、4℃に帰ってそろそろ『アリーテ姫』をスタートさせようか、という感じになってきたのは、1993年のどこかだったのだろう。
 しかし、この頃、元のスタジオ4℃が解散になってしまった。元の、というのは民家にみんなで群居していた仲間うちのことだ。佐藤好春さんがジブリに出稼ぎに行ったり、かくいう自分もあちこち出稼ぎにまわったり、要するにそれぞれのメンバーが別々に仕事を取ってやっていたのだが、なんとなく、個人のようで集団のようで、という仕事の管理が、責任関係のこともあってめんどくさくなってきてしまったのだった。変にギクシャクするよりもスッパリさせたほうがよい。
 ということで民家群居組は解散、会社組織としてのスタジオ4℃は、すでに始まっていた大友克洋さんのオムニバス映画『MEMORIES』の第1話と第3話を作る吉祥寺のスタジオに集約、ということになった。吉祥寺の4℃は、『となりのトトロ』『火垂るの墓』以来ジブリが使っていたその同じ場所だった。『MEMORIES』の第1話をやる森本晃司さんはここに行くとして、佐藤好春さんや井上鋭ちゃんは日本アニメーションの社内に入る道を選んだ。
 ちなみに、民家のほうは金田伊功さんたちがそのあと借りて入り「スタジオのんまると」を名乗ることになる。前からこの民家にも企画書を持って出入りしたりしていた金田さんは、飯能のほうにだったか使われなくなった廃校舎があるので、そこを仲間内で借りて仕事場にしようなどと夢ふくらむ話もしていたのだが、結局ここに来ることになった。4℃でいちばんオモチャをもっていた黒沢守君はそのままそこに残り、のんまるとの一員となった。田中栄子さんは「のんまるとの大家」と呼ばれることになった。
 で、『アリーテ姫』準備班はというと、『MEMORIES』の予算で借りているスタジオには同居させづらいので、三鷹のマンションの一室に入ることになった。準備班といっても片渕と浦谷千恵の2人がいるだけだったのだが。

第57回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
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(10.11.15)