β運動の岸辺で[片渕須直]

第32回 『名探偵ホームズ・劇場版』音響作業の夜と朝

 先日の打ち合わせの結果としてでき上がってきた『名探偵ホームズ』の音楽には、ちょっとした問題があった。『海底の財宝』の戦艦出現シーンにかけることになっている「軍艦マーチ」と指定された楽曲を、音楽家のほうで「かといってこれはイギリスの話だから、日本海軍の軍艦マーチがかかるのも妙だろう」と積極的な判断をしてくれたらしく、「錨を上げて」をイメージした流麗な曲があがってきてしまったのだ。宮崎さんの蛮カラぶりはことほど左様に理解されにくい場合がある。かといって『未来少年コナン』の軍艦マーチ風BGMを流用するのも音楽著作権的に難しく、ここは最後の手段として、本物の軍艦マーチを使うことになった。
 「軍艦マーチの著作権って、パブリックドメインになってるんですか?」
 「それがねえ、まだ切れてないんです。軍艦マーチの著作権って誰が持ってるか知ってますか?」
 鈴木敏夫さんから思わせぶりな問いかけをもらってしまった。
 「大蔵省なんですよ。要するに、日本国政府の持ち物だから、著作権料の管理をするのは大蔵省というわけで」
 なので、高畑さんが大蔵省まで楽曲の使用申請に行くことになったのだという。

 アフレコは赤坂のスタジオで行われた。
 高畑さんとは、青山一丁目あたりで待ち合わせたのだったろうか、そのあたりの喫茶店で少し話をしたことを覚えている。
 「あなたと宮さんの関係を正直よく知らないのだけど」
 と、高畑さんは話した。仮に片渕某がシナリオに加わっていたとしても、結局はすべて宮さんの思いと考えが貫かれることになっていただろう。今回の宮さんは、とにかく自分自身の思いを表すために集中しているのだから。
 以前、宮崎さん自身から聞いた、映画『風の谷のナウシカ』の骨子は印象深く自分の中に残っていた。
 「人類文明の落日のほとりにあって、でも、そこにいる人々はなおも懸命に生きようとしている」
 自分もブライアン・オールディスの『地球の長い午後』なんかも読んでいたし、落日の瀬戸際に生きる人間たちの情景はなんとなくイメージできた。それは描くに足るものだろうという思いもあった。
 ただ、実際に作られつつある『風の谷のナウシカ』はもう少し別の方向に、ナウシカというある種の英雄である人物を描き出すことそのものに大きな比重を置く方向にシフトしているようだった。
 人類文明の落日にあって、という話は高畑さんも聞いていたらしく、その線で考えるならばこういうアイディアで世界観を補強できるのではないか、と提案したこともあったらしい。そのアイディアも聞いてなるほどと思った。高畑さんが、そんなふうに遠未来SF的アプローチをするとは思っていなかったので、新鮮な驚きでもあった。

 この劇場版は、この時点での徳間書店と東京ムービー新社間の契約では、『風の谷のナウシカ』併映での使用に限定して許諾されたもので、その後には残さない、とされていた。
 主人公ホームズの声優はうっかりすれば別の配役になっていたかもしれなかった。元々ホームズ役に擬せられていた役者の方があったが、たまたまアフレコの直前にその周辺で火事があったため、後処理に忙殺されてキャンセルされていた。最終的にホームズを演じることになった柴田蹯彦さんは、『大草原の小さな家』の父さん(マイケル・ランドン)の声を当てていた人で、自分としてはこの方の声のほうが好みだった。

 思えば自分の携わった仕事が音響方面にまで達するのはこれが初めてだったので、事前にはずいぶん身構えたものだったが、物事はほぼ録音監督の斯波さんにおまかせしていればよく、こちらの出る幕など何もなかった。ただ一度、『青い紅玉』の録音中に、高畑さんが首をひねったことがあった。ベーカー街221bのホームズのベッドにもぐりこんだポリィに語りかけるホームズの台詞に、ちょっとした間があったのだ。
 「宮さんはこういう間のとり方はしないはずでしょう。これは撮影ミスか何かではないのかな」
 ただ、その間はそれなりに効果的に効いており、必要あってつけられた間のように思えた。
 「いや。でも、宮さんはこういう間の取り方はしない人でしょう」
 結局、絵コンテを取り出して氷解した。絵コンテの段階ですでに、そこに間1秒をとることが指定されていたのだった。
 「へえーっ。宮さんも変わったんだなあ」
 かつて演出家として宮崎さんを指揮する立場にあった高畑さんは、そんな細部にまでわたって宮崎駿という人を捉え込んでいたのだった。

 アフレコが終わり、数日経って同じスタジオでダビングとなった。
 前回のこの連載では記憶違いをしていた。前日に雪が降って路面が凍っていたのはこのダビングの日のことだった。
 ダビングでは、「軍艦マーチ」だけでなく、ほとんどの楽曲の当て場所を再検討しなければならず、時間がかかった。それは結局一昼夜かかってしまったのだったが、高畑さんはひたすら長い退屈をしのぐため、いろいろな話をした
 まずは、
 「歯医者で頼みもしないのに前歯を抜かれてしまって」
 という怒りの言葉があった。
 実は、『赤毛のアン』の打上げのとき、飲めないビールを飲んでしまった高畑さんは、うつらうつらしながら帰りの電車に乗っていて、ふともたれようと思ったらちょうどそこが駅で、もたれようとしたドアが開いていしまって、高畑さんはホームで顔をぶつけた。そのときの歯が今頃ぐらぐらしてきたので歯医者に行ったら、歯科医が触るなりポロっと抜けてしまったのだという。
 「代わりにこんな金属の歯を入れられて。体内のイオン化傾向が……」云々。
 「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山」
 という百人一首の和歌の話はなんだったのだろうか。それから、日本語の古代音韻の話に移り、それからさらに、
 「海外の旅先のホテルですることがないときは、ベッドの横の引き出しに入っている聖書を見ることにしてる。何語でも同じことが書いてあるから、その土地の言葉が少しわかるようになる」
 「テレビの『じゃりン子チエ』のとき、何度となく大阪へ往復したから、退屈しのぎに窓から見える山のことを全部調べた。僕は『新幹線の窓から見える山』という本が書けると思う」
 などなど、と朝まで。退屈で時間をもてあますときには、とにかく世間的には「勉強」に類することに挑んでしまう人なのだった。

 朝になってスタジオを出ると、雪が凍っていた。
 革靴を履いた高畑さんは足を滑らせ、折りしも走ってきた車の前に転がりだしかけた。
 「危ないです」
 「うん」

第33回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.05.17)