β運動の岸辺で[片渕須直]

第22回 演助助になる

 高畑さんはメインスタッフを連れて渡米することになった。
 日米合作映画である『NEMO』は、単に資金的・製作的な合作であるだけでなく、制作面でも日米のスタッフを取り混ぜて行われることになっていた。日本側に演出・高畑勲、作画監督・近藤喜文、友永和秀、美術監督・山本二三が立っているのと同じように、アメリカ側にも演出家、2名の作画監督、美術監督が立っていた。彼らと合同して作業を行うため、メインスタッフは渡米する必要があった。
 アメリカ側演出のアンディ・ギャスキル氏は、ディズニーの大立者フランク・トーマス、オーリー・ジョンストンの紹介で加わった、本来ならばナイン・オールドメンが去った後のディズニーを背負うべき俊才アニメーターである、という話だった。なぜ、そんな重要な人がディズニーの現場を離れて日本との合作などに身を投じているのか。そのほか、グレン・キーンなど現役のディズニー・アニメーターらもなぜかスケッチを寄せてきているようだった。
 どうも、ウォルト・ディズニー・プロダクションの経営にガタついている面が出てきているようで、現行経営陣は気に入られておらず、さらに、『レスキュアーズ』以降の長編も泣かず飛ばずで、次代を担うべきディズニーのアニメーション・スタッフたちも浮き足立ってしまっているようだった。

 ということで、『NEMO』の日本側メインスタッフたちはロサンジェルスへ発っていった。
 一方で見送るこちらは、ストーリー・ミーティングも終わったしお前の仕事はもう終わりだから、と、いい渡され、それどころか、在米メインスタッフとの連絡任務からも外され、テレコムの現場班がつなぎの仕事に投入されるのに伴い、そっちの編成に組み込まれることになった。
 結局、高畑さんとは面と向かってたいした会話もできずに終わってしまった。

 当時、東京ムービー・グループは国内TVシリーズから、徹底的に離れつつあった。だからそういう類の仕事があるわけでもなく、こちらに放り込まれる仕事は、結局のところ海外との合作だった。
 かつての『名探偵ホームズ』がイタリアのテレビ局RAIとの合作でありつつアメリカ三大ネットワークでの放映を狙ったように、今度の仕事もフランスのアニメ製作会社DICと合作で、アメリカで放映するためのパイロットフィルム兼TVスペシャルであるとのことだった。タイトルは『リトルズ』といった。
 以前、自分が入る前のテレコムでは、同じくDICのSFTVシリーズ『ユリシーズ31』のパイロットフィルムを作ったことがあったらしかったが、こんどの『リトルズ』は小人が人間の子どもと関わる、コメディ風味の冒険ものだった。丹内司さんがキャラクターデザインと作画監督を務め、実質的には富沢信雄さんが演出するということなのだが、監督には『ユリシーズ31』と同じベルナール・デリエス氏が座るので、富沢さんのポジションは、「申し訳ないのだけど、便宜的に『アシスタント・ディレクター』ということにしてくれ」と、同じ新井薬師の社屋内に部屋を構えたDICジャパンのほうからいわれてしまった。
 この話には、「じゃあ、片渕はアシスタント・オブ・アシスタントディレクターということで」というオマケがついた。
 「演助助ですか」
 「そう。演助助」
 別に立場が演助助でも何でもかまわないのだが、シナリオはフランス側で決定ずみ、絵コンテはフランス人が切る、キャラクターデザインもフランスからベースになるものを送ってくる、ということで、いずれにせよ何かができそうな気配はなかった。
 ベルナール氏もいずれは日本に来ることになるらしかったが、とりあえずまず、フランス人の男性スタッフ2人が来た。彼らがベルナール氏来日までの間、絵コンテを切ったり、われわれ日本側をスーパーバイジングする、ということだった。

 彼らフランス人2人がやってきて、われわれの間に仕事机を構えることになったのだが、申し訳ないことに、彼らの名前を忘れてしまっている。顔は覚えてるつもりなのだが。
 仕事を始めた彼らの机をのぞいて、暗然とした。絵コンテの切り方、カットの割り方、積み方、何も知らないじゃないか、この人たち。これはカメラワークのつもりなのだろうか?
 「これはまずいですよ」
 「うーん」
 現場的作業を行う日本側スタッフとして、フランス人の絵コンテの何が実用的でないかを具体的に指摘しなければならなかったし、具体的な改善案も示さなければならなかった。そういうことを、富沢さんや丹内さんといっしょにやらせてもらった。

 アメリカで進行中の『NEMO』のストーリー・デベロップメント作業の一端が伝わってくると、こちらでも支援しようと、アイディアを絵に描いて送ろうという話が持ち上がった。無統制かつあまり理解も及ばないままそんなことをしても高畑さんには迷惑だろうな、という思いは個人的には抱いたが、絵は率先して描いたし、適当なシチュエーションをピックアップしては、自分勝手に絵コンテに描いたりしていた。

 そんな感じで自分の絵コンテ修行は、またしても自習的に自分流を養ってゆくことになっていった。
 1982年暮れの除夜の鐘は、新井薬師の会社の会議室で聞いた。いつもの通訳の女性たちがすでに年末年始の休暇に入っていたので、多少日本語が話せるDICのシャロパン社長を通訳に使ってしまって、『リトルズ』1話の絵コンテを、フランス側と相談ずくの上、なんとかまとめあげていたのだった。
 「こんな仕事で除夜の鐘、聞いちゃったね」
 と、丹内さんは苦笑した。
 自分自身はまだ大学4年生の卒業前だった。

第23回へつづく

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(10.02.22)