β運動の岸辺で[片渕須直]

第6回 『漫画映画』の作り方・自習編

 高校3年の春の時点では別にアニメーションなんか志してはおらず、ひたすら学校内で8ミリカメラを振り回していた。視聴覚委員長という立場になって生徒会長から委託されたのは、7月に開かれる文化祭の計画から実行までの全過程を8ミリで撮影し、文化祭前夜に編集して当日に上映するという、まあ、チャレンジし甲斐のある企画で、思えば同級生でもあるこの生徒会長が自分にとって最初のプロデューサーなのだった。
 謄写版のゲーハー輪転機がガーガーとうるさく藁半紙を吐き続ける生徒会室だとか、その他学校中のあらゆる場所で、ほんとうに日夜、8ミリを回し続けた。文化委員の活動開始時刻に合わせて始発電車もはじめて乗ったし、授業に出ずに1日編集に費やして眼精疲労で目が開かなくなったり、アフレコ・ダビングで徹夜したりの事始めもした。せっかく出会った『未来少年コナン』どころでなく、「受験生ブルース」は口ずさめども受験勉強など度外視で、いずれにしても、生徒会長、文化委員長、視聴覚委員長の現役合格は絶対にありえない、という厳然と聳える本校生徒会のジンクスがあったので、まあ、安心して受験からの敗北に無抵抗に身をゆだねていた。
 そこからの途中の経路がほとんど思い出せないのだが、学年の後半は真似事のようなアニメーションを作るようになっていたのだから不思議だ。
 高校の物理化学研究室には、のちに剣玉世界一でギネスブックに記載されて名を知られることになる鈴木一郎助手という方がいて、この方が分子運動の動きをセルアニメで制作しているのを覗き見して、セルの代わりにOHP(オーバーヘッド・プロジェクター)用の透明シートで代用していたのになるほどと思ったり、二つ穴の事務用穴あけパンチを使ってレポート用紙に穴を開け、プラバンに筆の軸2本を接着してタップを作ったり、本棚のガラス戸をはずして下に蛍光灯をおいて透写台がわりにしてみたり、そんな試行錯誤に明け暮れた。当然、自己流ながら、適当に作画もやっていた。
 それにしても、セルだとか、タップだとか、穴のあいた動画用紙だとか、透写台だとか、いつの間にどこで覚えたのだろうか。
 高3の1年間をこうまで勉強せずに過ごしているとは、まったく将来の進路を語る資格もないものだが、春には漠然と「NHKの『自然のアルバム』のカメラマンって、フクロウの巣のある森にカメラとともに何ヶ月も籠ったり、いい仕事だよなあ」くらいに憧れていたものが、受験シーズン到来の頃には「映像やるならアニメーションだな」にまで変わっていた。

 翌年の夏、電車の中で、自分より1代前の生徒会長とばったり出会った。
 「片渕はさあ、どこの予備校行ってるの?」
 と問うてきた「先代生徒会長センパイ」は2浪目の受験生だった。
 実は、こちらは申し訳なくも、映画学科のある大学に現役入学してしまっていたので、そう告白すると、思いっきり「裏切り者」呼ばわりされた。
 まったく、間際になって赤本片手にわずかに張ったヤマすら全部外れたというのに、入学させてくれるとはずいぶん度量の広い大学もあったものだと、今だに思う。でもって、今でも非常勤講師となってそこに籍を置いているのだから、不思議なものだ。
 いわゆるアニメブームが訪れかけていた時期で、アニメーション手作りに関する我が知識の源は、アニメーションの手引きみたいな記事があちこちにのっていた斜め読みだったのかもしれない。中で日本アニメーションが出版した『未来少年コナン・愛蔵版』などという本があるらしいことを知り、『コナン』はシリーズ中盤はそれどころではなくて全然見ていなかったりもしたのだが、手に取ってみたりした。数万円もする『ヤマト』の豪華本は非道すぎたが、『コナン』のは3800円くらいで、こづかいでギリギリなんとか手が出せる範疇だった。
 この本に『コナン』8話の絵コンテ全編が載っていた。これは目から鱗だった。アニメーションの映像表現が構成される以前にこのような「絵コンテ」という前段階があるという実態を初めて知った。セルやタップや透写台は知りつつも、絵コンテの存在になどそれまで気づいてなかったのだ。それを描いた宮崎駿なる人の存在もはじめて知った。それにしても、今になって奥付を見ると、この本を手にしたのは高校を卒業し、大学入学も決まったあとの頃のようなのだが、ほんとうにそんなに遅かったのだろうか。
 いったい何を考えて、アニメーションの講座がある大学に入ってしまっていたのだか。

 今は大学の映画学科で講師をしています、というと、「ああ、アニメーションを教えていらっしゃる」と反応されるのが常だが、実のところ、4月に新入生を迎えて自分が最初に教えるのは三脚の立て方、次いでその上へのビデオカメラの載せ方、水準器を使った水平の取り方。ケーブルの8の字巻き。撮影ステージに入るときは帽子と軍手が必要です、女子はヒールのある靴はダメ。スカートはいて来るな、パンツ見える姿勢でも撮影やらすぞ。ピンボケ画面は不良品。……要するに、1年生に向けて映像一般の基礎教育だけを行っている。
 自分が学生の頃の映画学科もそうだった。あいかわらずのフジカ・シングル8だとか、ENGだとか、16ミリのキャノン・スクーピックだとか、アリフレックスだとか振り回したり、さらに、ほとんどの時間は同級生が監督する実写映画の助監督をして「遊んで」いた。ほこり臭いステージに据えられた撮影セットの陰、その上に吊るされた荷重(「にじゅう」と読む)の上の暗がりが居心地よかった。アニメーションの授業なんて4年間に2コマ、2年で「アニメーションI」、3年で「アニメーションII」があるっきりだった。
 その2コマの担当講師が池田宏師、月岡貞夫師で、こちらは大慌てで『日本アニメーション映画史』なんかを買い込んで勉強していたので、『空とぶゆうれい船』とか『もぐらのモトロ』だとか、『西遊記』『わんぱく王子の大蛇退治』『狼少年ケン』などのことは辛うじて付け焼刃で知っていた。
 池田さんの授業は示唆に富んでいた。
 「画面のブレには『フリッカー』『ジッター』『ストロービング』があって……その原理的違いは、あとは自分で調べなさい」
 「遠近法による奥行きの出し方は、こう線を引いたときこことここの関係は、ほら、方程式を思い出せ。……どうなる? あとは自分で考えなさい」
 と、肝心なことは絶対に学生が自分自身で考えるように仕向けられていた。学生の側がちゃんと立ち向かえるならば、こんな有益な教育法はない。
 月岡さんの授業もたいへんおもしろく、1年間を費やして、東映動画時代いかに自分がイタズラしたかが話された。
 「夜中に人を脅かすにはね、セルの薄紙をびりびりっと裂いてミイラ男みたいに顔に貼りつけてね、そこへちょっと赤インクを染み込ませるんだ。そうやって、徹夜で仕事してる撮影の部屋の窓に外から張りついてね……」
 「その頃から、撮影は夜中までやってたんですか?」
 「そう。だけど、全然気がついてくれなくて、いつまでも張りついてるの、そのうちわびしくなってきてねえ」
 月岡さんのイタズラ好きは『日本アニメーション映画史』で読んでいた。被害者列伝には若き日のりんたろうさんや吉田茂承さんの名があり、共犯者の方には大塚康生さんの名前が挙がっていた。話を聞くだけで、歴史的雰囲気に浸れた。

 結局、大学でもアニメーションの作り方を身につけるためには自習するしかなかった。法学部出身の父親からは「お前の学問には専門書がないのか」と呆れられ、しかし、『愛蔵版』以来、『コナン』の絵コンテが勉強になるとはわかっていたので、山の中にある日本アニメーションまでときどき出向いては絵コンテを売ってもらっていた。多摩スタジオではまだ『赤毛のアン』を作っていたから、初めは1979年の終わりくらいからだったのだと思う。
 天網恢恢疎にして漏らさず。片渕がそんなあたりに興味を持っている、と、池田さんに気づかれてしまったらしい。そのうち、じゃあ、宮崎の『新ルパン』の最終回、あれを教材に使ってやろうか、と言い出された。それがまた、「ビデオ見て全編の映像を覚えてから、コンテ採録しなさい」というヘビーな課題だったのだが。
 「あれは、『空飛ぶゆうれい船』のあのシーンのあのカットとあのカットを裏にして……」
 と、池田さんは、戦車のシーンのコンティニュイティのことをクスクス笑っておられた。
 その次は、ものはついでだ、「じゃあ、宮崎を呼んで、話でも聞くか」ということになった。宮崎さんは『さらば愛しきルパンよ』を終えて、津和野に休暇旅行中だから、帰ってきたら教室に来てもらおう、と。
 ともあれ、それが1980年10月だった。

第7回へつづく

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(09.10.13)