β運動の岸辺で[片渕須直]

第2回 魂を塗り替えられる

 何か子どもには理解できない「協定」なるものがあって、祖父の映画館では東宝映画はかからなかった。東映、大映、松竹、日活のはかかるというのに。小学校の講堂や公会堂で催される映画上映会くらいでしかゴジラにお目にかかれなかった。必然的に東映長編動画はかなり見た。昭和38年『わんぱく王子の大蛇退治』から43年『アンデルセン物語』までを。『太陽の王子 ホルスの大冒険』は見ていない。チャンバラ映画が廃れヤクザ映画が台頭するのが気に入らなかった祖父が映画館を畳んでしまったので。そう、そのあと転居先で『長靴をはいた猫』だけは見ている。子ども時代に体験した東映漫画映画はそこでおしまい。
 子どもだった自分の中に強く印象されたのは、『わんわん忠臣蔵』『少年ジャックと魔法使い』『サイボーグ009』『長靴をはいた猫』という顔ぶれ。東映出身スタッフが作った『九尾の狐と飛丸』もここに加わる。作品の品質的な高低はあまり関係していないようだ。
 『わんわん忠臣蔵』のジェットコースター、『長靴をはいた猫』の魔王の城は自分では同系列に並べて受け止めている。舞台装置自体がメカニカルでトリッキーなところに悦びを感じていたのだった。これらについてはいずれどこかで触れるかもしれない。
 残る『少年ジャックと魔法使い』『サイボーグ009』『九尾の狐と飛丸』の共通点は何だろうか。これら全部、魔法その他の働きでヒロインが魂を入れ替えられ、別人格になって主人公に襲い掛かってくるのである。これには子ども心に根源的とも思える恐れを抱いた。
 『少年ジャックと魔法使い』の意地悪な小悪魔キキーは、魔女の悪魔製造機の産物であり、最後に機械が逆転されると以前とはまったく異なる善意の少女に生まれ変わった。『サイボーグ009』では、ブラックゴーストに捕獲された003が再改造され、009たちに襲いかかってくる。『九尾の狐と飛丸』の主人公と幼なじみの少女・玉藻は、悪魔・九尾の狐が敵を逃れて潜伏するために隠れ蓑としてまとった架空の人格に過ぎず、主人公は実在しない少女の魂を取り戻すために戦おうとする。
 思えば、それ以外の映画からも記憶の端にへばりついているいくつかのシーン、『アンデルセン物語』で赤い靴を履いた女の子が自分の意思に反して踊りが停まらなくなったこと、『ガリバーの宇宙旅行』で人形かと思ったお姫様の仮面が割れ中から生身の女の子が現れたこと。これらも同じように受け取っていたのかもしれない。
 おそらく性的なもの、男の子である自分から見て女の子の魂が変質するから怖い、というのではなかったと思う。『少年ジャックと魔法使い』では主人公の相棒のネズミ(♂)も機械に放り込まれて小悪魔化しており、それを見て同じ感覚を味わっている。自分自身がそうなってしまったら……という恐れだったのだ思う。実際、自分の作品で同じことをしようとしたら、主人公本人であるアリーテ姫自身が魂を塗り替えられる表現となっている。
 「声優」という存在に気がついたのは、『みなしごハッチ』で野沢雅子さんが演じておられたクモの子の声が、別の番組で別の登場人物の口から発せられたときだったという記憶がある。「演じる」という概念は希薄で、ひとつの声の持ち主の魂が塗り替えられてしまったようにここでも感じてしまっている。今でも役者さんを見ると奇妙な感覚を覚えるときがある。自分が演出している側であるにもかかわらず。
 どうも、当時見た東映長編の記憶に焼きついている場面はすべて「アイデンティティ」の問題に関わっているようだ。自我を奪われ、別の自我を貼りつけられる。「自分自身」をさほど明確に抱けていない幼児期の自分は、そうしたものに最大級に揺さぶられてしまっていたのだった。映画は観る者に何を「記憶」として残すのだか、計りしれない。

第3回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(09.09.14)