アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その88 「ファントーシュ」のこと

 日本最初のアニメーション専門誌「ファントーシュ(FANTOCHE)」が創刊されたのは1975年10月のことでした。徳間書店から「アニメージュ」が創刊されるのが1978年ですからだいぶ前のことになります。この雑誌のそもそもの始まりは1975年に並木さんが初めてフランスのアヌシー・アニメーション・フェスティバルに参加した時に遡ります。アニメーション・フェスティバルの本場で様々な物事に触れた並木さんの様子はアニドウの会報「FILM1/18」や「1/24」での「ムッシュヤカンのふらんす日記」に書かれてありますが、中でも並木さんの心を捉えたのは現地で手にした雑誌「FANTASMAGORIE(ファンタスマゴリー)」だったようです。それは日本ではまだ存在しないアニメーション専門の雑誌でした。アヌシーに並木さんを誘った本人である川本喜八郎さんは「FANTOCHE」創刊号の中で、次のように書いています。アヌシーまでの汽車の中で知り合った「FANTASMAGORIE」の記者から同誌を見せてもらった並木さんが「負けた!」と叫んだのを覚えていると。
 早速同誌を購入した並木さんは帰国後、日本でもアニメーションの専門誌を創るべく動き出しました。アニドウにはすでに私が編集担当している「1/24」がありましたし、並木さんの狙いはサークル内での狭い流通ではなく、書店で販売する商業誌を作ることでした。並木さんは、甲谷勝さん、須藤隆さん、広瀬和好さん等に声をかけ、日本初のアニメーション専門誌発行に向けて活動を始めました。甲谷さん、須藤さんは大学生でアニドウの有望な会員であり、広瀬さんとは私や石之さんが手塚ファンクラブにいた関係でつきあいがありました。広瀬さんは最年少ながら当時すでにレコード会社や映画会社、アニメスタジオ等に独自のコネクションを持っていました。当時の業界には、潜在的なアニメファンから高まりつつある需要に対して対応できる人材がほとんどおらず、広瀬さんのような事情に通じた人が重宝されていたのです。
 並木さんの決めた誌名は「FANTOCHE(ファントーシュ)」。アヌシーで手にした「FANTASMAGORIE」誌はアニメ史の初期に活躍したエミール・コールの愉快な線描きアニメーションのタイトルから取られていますが「FANTOCHE」は同作の別な呼び方です。書店売りする雑誌として体裁も活字、写真入りの本格的なオフセット印刷の誌面作りが必須で、そのために並木さんはアニドウのOGでデザイン関係の仕事をしている女性に写植その他のノウハウを学んだと聞きます。アニドウでも大々的に宣伝をして定期購読者を募りました。
 創刊号は昭和50年(1975年)10月31日初版発行、定価300円、編集・発行人が並木さんで、発行所はファントーシュ編集室として甲谷さんの住所になっています。制作協力には小松沢甫さん、丸山晃一さんたちと共に私(富沢洋子)の名も載っています。最近まで自分は「FANTOCHE」には関わっていないと思い込んでいたのですが、実際の誌面を見ると『ハイジ』の紹介と「TV/ANIMATION」の項、海外アニメの紹介「あなたも上映会を」のコーナーを担当しています。ただし前ふたつのページはどういうわけか活字でなく私の手書き文字なのですが。
 創刊号の表紙は白地の中心に古川タクさんの『驚き盤』の1コマがモノクロで大きくあしらわれ、誌名は「FANTOCHE」と記されています。表紙を開くと並木さんによる巻頭言「創刊にぶちあたって」。右側の目次は活字と複数の筆跡の手書き文字が入り混じって雑然とした印象は否めません。巻頭の「創刊に……」と題するページには政岡憲三さん、手塚治虫さん、森やすじさんをはじめ錚々たるメンバーからの祝辞が並び、内容も杉本五郎さんの「映画フィルムはなぜ?」と中村武雄さんの「日本人形アニメーションの歴史」の連載、ハリーハウゼン研究、『わんぱく王子の大蛇退治』のシナリオ(前半)掲載と、とても意欲的なのですが。
 創刊号は書泉等の有名書店に並び、商業誌としてのスタートを切りました。が、早々に波乱が起こりました。創刊の1号限りで並木さんが抜け、甲谷・須藤・広瀬さんたちが「ファントーシュ」を続けて行くことになったのです。1976年4月発行の第2号では発行責任者は広瀬和好さん、発行所はファントーシュ編集室のままで、編集は甲谷・須藤さんに吉沢亮吉さんが加わり、後に高山弘さん等も加わっています。吉沢さんも高山さんもアニドウの意欲的な会員で須藤さんたちの友人です。定価は400円に上がり、内容は連載や連続企画はそのままに、中心記事は手塚治虫さんと松本零士さんのインタビューになっています。一番の変化は表紙で、TVの『宇宙戦艦ヤマト』で実際に使用された松本零士さん直筆のスターシャのイラストがカラーであしらわれ、誌名は「季刊ファントーシュ」とカタカナになり、その上に「◎日本最初のアニメーション専門誌◎」と記されています。
 1976年5月発行の「FILM1/24」第8号(活字化最初の号)19頁の片隅で並木さんは「FANTOCHEのこと」と題する黒枠つきの小文を書いていますので抜粋してみます。
 「みなさまの御協力で私は昨年11月に、アニメーション専門誌FANTOCHEを創刊いたしましたが、此の度残念ながら、その編集から離れる事になりました。創刊号発刊直後から編集方針についてスタッフ間で話し合ってきましたが、あくまでもアニメ専門誌を目ざす私とTVアニメファンの中だけのミニコミにして売れる本にするという他のスタッフとの意見が折り合わず、このままでは同名の雑誌が二冊現われ、協力して下さる方々にも御迷惑がかかるため、彼らの主張の一部の正当性を認め『ファントーシュ』の名と既に彼らが私有している購読者名簿と予約金だけは譲り渡すことにしたものです」
 この説明を私はずっと信じていました。並木さんをかばう文章も書きました。でも先頃、30数年ぶりにかつての『ファントーシュ』の関係者複数と別個に顔を合わせる機会があり、並木さんの説明とはまた違う話を耳にしました。私有とされた購読者名簿もコピーして並木さんに渡したとのことです。並木さんの説明を頭から信じていた私は彼らの話に愕然としたものです。

その89へつづく

(10.08.13)