アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その57 オープロでの日々

 私が入った頃のオープロは社員が20人ほどだったでしょうか。各部屋には壁に沿ってパズルのようにびっしりと動画机が置かれていました。私の入った真ん中の部屋は才田さんが作画の中心になっていたので才田部屋と呼ばれていましたが、元々あった押入れや物入れ、床の間等の仕切りを撤去して動画机を入れるように改造したらしく、ひときわ机がごちゃごちゃとしていました。
 各々の机の上や棚には動画用紙やカット袋、筆記用具や参考資料、趣味の雑誌等が積まれていましたが、フィギュアも食玩もない時代だったので、収拾がつかないような事はありませんでした。私はいつも横に小さな花の鉢植えを置いていたものです。
 動画机では内蔵の蛍光灯と、机の左上に留められたクリップ式のライト、電動鉛筆削り等を使いますが、電源は大元のコンセントに複数の差し込み口のあるコンセントを差し、そこにまた延長コードを差しという具合で、とてもタコ足配線どころの話ではありません。タコが何匹重なっているか分からないような状態で、扱いも雑でしたから、今にして思えばよく漏電や何かの事故が起きなかったものです。
 朝は大体10時頃から昼過ぎにかけてぼちぼちと人が集まり始め、挨拶は何時でも業界的に「おはようございます」。夕方でも夜でも、その日初めて会った人とは「おはようございます」ですから、商店街の中などだと不審そうにこちらを見る人もあって、それがまた業界=プロという意識をくすぐったりしたものです。かなり子供っぽい意識ではありますが。

 当時はアニメーターといっても色々な人がいました。最初からアニメーターをやりたくてこの道に入った人だけでなく、本当はマンガ家になりたいけれどそちらでは芽が出なくてアニメーターで食べている人や、アニメというよりも絵を描くことが好きで、絵に関連する仕事なら何でもという気持ちで入った人、TVでアニメを見るのが好きだったので職探しの時にたまたまという人等もいて、現在のようにアニメ関係の学校や講座を経てから業界入りする人たちとは少し様相が違っていたかも知れません。そういえば、かの奥山玲子さんも就職時には動画という言葉を童画と勘違いしていたと聞きます。
 マンガ家志望の人は仕事はきちんとこなしながら一方で投稿や持ち込み用のマンガを描き続けていました。アニメ界ではアニメーターを経てマンガ家、劇画家として1本立ちした人も少なくなく、東映動画出身の永沢詢(まこと)さんや林静一さんのようにイラストレーターに転進して大成した方々もおられます。異色の経歴の持ち主といえば麻薬取締官出身の大塚康生さんが筆頭に上がりますが、オープロでもスクールメイツ出身(西城秀樹のバックで踊ったこともあったとか?)の女性もいましたし、反対にアニメーターを辞めて幼稚園の先生になった人もいます。中にはこの人がなぜアニメをと不思議になるくらいアニメーターが似合わない人もいましたし、人生様々です。

 他の会社はどうか知りませんが、オープロでは毎年春にはマザー牧場や多摩動物園等、東京近郊へ会社持ちのお弁当つきの遠足、夏には少し足を延ばして伊豆方面等へ海水浴を兼ねての一泊旅行が恒例行事でした。カメラ好きが多いのもこの業界の特徴か、集合写真やスナップ写真を沢山撮っては後日、模造紙に並べて壁に貼り出し、焼き増しの注文を受けていました。まだデジカメの存在しないフィルムカメラの時代のことです。この旅行を機に恋が芽生えることも多く、結婚にゴ−ルインしたカップルもありました。オープロでは幹部連をはじめ結婚している人も何人かいましたが、ほとんどが20代、中には18、19の社員もいる、会社自体が若々しく活気に満ちていた頃でした。それはオープロだけでなく、アニメ界全体が若々しい発展途上の時代だったのかもしれません。

 会社の玄関脇にはなぜかタイムレコーダーが据えつけてあり、皆、退社時にガチャンと刻印していましたが、果たしてあれは何か役に立っていたのか謎です。あるいはボーナスの査定にでも活用されていたのでしょうか。
 そう、オープロでは世間並みに夏冬の時期にボーナスが支給されていました。といってもその時期に格別会社としての収益が増えるわけもなく、幹部連が日頃から上手く遣り繰りしてくれていたものでしょうけれど。
 ボーナスの額は人によりけりで、4〜5ケタ。それでも私たちはとても嬉しくて働いていて張り合いがありました。
 オープロでは普段から給料日には離れの東映部屋に皆で集まって、社長の村田氏から手渡しで茶封筒に入った現金を受け取っていました。その時に村田氏から会社の現状や仕事の状況、社員の入退社の報告や諸々の注意点等の話があります。普段から村田氏はものに動じない鷹揚な人で、話す時にもゆっくりと考えながら自分の間合いで話すのですが、合間合間に合いの手のように「あ〜……」という空白が空いて、それがまた村田氏らしい独特の雰囲気を作っていて、私たちは皆、村田氏の「あ〜……」を親しみを込めて聞いていたものです。
 年に2回のボーナス時には、特別に会社から大きな寿司桶で出前のお寿司が振る舞われました。シャコの入った安いもので、食べるのも早い者勝ちでしたが、やはり嬉しくて、シャコのことをガレージと言う(シャコ=車庫だから)米川さんの毎回の駄洒落に笑いながらの楽しいひと時でした。
 オープロに関しては嫌だったこと、困ったことが何一つ浮かびません。本当に幸せな会社だったのです。

その58へ続く

(09.05.29)