アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その35 『バヤヤ』との出会い

 前回書いたとおり、私が初めて参加した静岡での第2回全国総会の特別上映はチェコの長編人形アニメーション『バヤヤ』でした。当時は『バヤヤ王子』という邦題がつけられていました。
 作者はイルジー・トルンカ。チェコ語の発音は難しいらしく、トルンカの名もイジー、イージー、イルジ、イルジー、とこれまで様々な表記がありましたが、現在ではイジーに統一されつつあるようです。私はこの全国総会の時のイルジー・トルンカの表記に思い入れがあります。
 作品の原題は単に『バヤヤ』。物語的にも王子ではありませんが、バヤヤという語だけではそれが人の名であることも分かりにくかったとは思います。
 トルンカの名はすでに知っていました。作品の断片も、以前に書いたとおり、昔『プラハの夢』というTV番組の中で見たことはありました。しかしひとつの作品として、しかも長編を見るのは初めてでした。
 現在でこそチェコアニメ映画祭という催しも開かれ、チェコの国土や文化は静かなブームとなって様々なメディアに取り上げられていますが、この当時のチェコは日本にとってまだ遠い国でした。1963年にチェコのトルンカ・スタジオに単独留学された川本喜八郎さんも、相当なご苦労を経て渡航を実現されたことを後に聞いています。
 そんな中でこの『バヤヤ』のフィルムは、大阪映教という、映画を仕入れては学校等の視聴覚教材用に販売する会社がたまたま試しに輸入したもので、自主上映会等を通してこの会社と縁のあった大阪のアニメサークルKACの中目さんが試写を見てこの作品に魅せられ、総会のために特別にフィルムを借り受けて会場に持参してくださったのでした。
 フィルムはもちろん原語版のまま、字幕なし。といってもほとんどセリフはないのですが、物語の鍵を握る不思議な白馬のセリフと、合い間合い間に語りのように入る子供の歌声はチェコ語でした。そのチェコ語の響きの豊かで美しいこと、全編を彩るヴァーツラフ・トロヤンの音楽の荘重さに、まず魅せられました。何の予備知識もなく見始めたので、ストーリーはおぼろげにしか分かりません。騎士の衣装をまとったバヤヤが小国を脅かす竜を三たび退治する場面があるのですが、トルンカの演出は決して派手ではなく、人形アニメなので動きも自由なものではありません。
 しかし、もの言わぬ人形の顔が、まるで文楽人形や能面のようにその内面を表現してみせる光と影の演出の見事さ。3人の姫君たちの、ゆったりとした典雅な動き。王のお付きの、ロバの耳の頭巾を被った老道化師が示す心の機微の素晴らしさ。そしてバヤヤと伏し目がちな末姫とのバラを介在とした恋。くすんだアグファカラーの画面からは気品と香気が漂ってくるようで、完全に理解はできないのだけれど、何かとてつもなく神秘的な素晴らしいものを見てしまったという感動に心が震えるのを覚え、ただただ圧倒されました。
 トルンカの作品は見る者を選びます。寡黙なその作品には耳に聴こえない「声」が流れています。その声を聴くも聴かざるも、それは見る人次第です。トルンカの作品は心を傾けてこちらから聴き取らなければならないのです。単にストーリーの表面的な流れ以上のものを。心柔らかく無垢で感受性も強かった18歳の頃に、このトルンカの、しかも『バヤヤ』に出会えたことは大変な幸せだったと思います。

 輸入元の会社は結局、販売の見込みなしと判断してフィルムはそのままチェコへ送り返されるはずでした。しかし、『バヤヤ』を発見し、誰よりも深く魅せられていた中目夫妻がフィルムをその運命から救い、幸運なことに私たちはその後何度も『バヤヤ』を見る機会を得ることができました。全国サークル共同の上映会も開きました。当時のチェコ大使館にトルンカの制作風景を収めた短編フィルムがあるのを見つけ、『バヤヤ』の大きなセットに自ら装飾を施すトルンカの姿が見られたのも嬉しいことでした。当時、音楽を録音したカセットテープは今も大切に持っています。
 現在のようにトルンカの主要作品が長短あわせてDVDとして発売される時代が来るなど夢にも思わなかったこの頃、『バヤヤ』と私たちを引き合わせてくれた中目夫妻は私たちの恩人です。独身時代にKACの創始者でもあった中目(旧姓・三木)真理子さんは以来ずっとトルンカの人と作品研究に打ち込まれ、現在は日本とチェコを結ぶ講演や文筆活動にも勤しんでおられます。『バヤヤ』の、細面の美しい姉姫を見るたびに、私はそこに若かりし真理子さんの面影を重ね見るのです。そして、中目ご夫妻に次いで日本で2番目に『バヤヤ』が好きなのはこの私という自負を新たにするのです。

 トルンカの作品に向かい合い、見るほどに、耳を澄ませるほどに、トルンカがフィルムに込めた声が心に響いてきます。その奥深さと豊かさに、トルンカは私にとって大切な大切な作家であり続けるのです。
 チェコの国営スタジオの主柱として長く活動してきたトルンカには数多くの作品があり、その中には人形アニメーションとしては世界でも稀な5本の長編作品がありました。あの頃、アニメーション関連の洋書に見る作品のスチル1枚から、まだ見ぬ作品たちへどれほどの想像を広げたことでしょう。トルンカ作品の全貌を求め渇望する長い旅は、この総会の日から始まったのです。

 最後に前回の訂正を。望月信夫さんは当時東京に住んでおられ、この静岡での総会には参加されていないそうです。

その36へ続く

(08.07.25)