アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その30 マクラレンとNFBの作家たち

 ノーマン・マクラレンとカナダNFB(国立映画制作庁)の諸作品を初めて見たのもアニ同の上映会でした。ほとんどが大使館フィルムで、数ある大使館の中でも、カナダは特にフィルム・ライブラリーに力を入れていたので、様々な作品を見ることができました。
 マクラレンについては、高校の時に新聞で読んだ久里洋二さんによる紹介等ですでに知っていましたが、実際の映像を見るのはもちろん初めてです。百聞は一見にしかず、という言葉がこれほど似合う作家もいないでしょう。
 フィルムの膜面を針で引っ掻いて絵を刻み込むシネカリグラフの傑作『線と色の即興詩』、フィルムに直接絵を描いた『めんどりの踊り』、人間をコマ撮りするピクシレーションという手法による『隣人』、厳密にはアニメーションではないのですが多重露光によるバレエの映像が幻想的な『パ・ドゥ・ドゥ』等々、その作品は驚異に満ち、大胆であり、かつ繊細で、生命への慈しみが感じられる独特なものでした。ちなみに私が一番好きな作品は愛おしさで胸が一杯になる『つぐみ』です。

 入会した頃に見られた他の作家の作品は、イブリン・ランバートの色彩鮮やかな切り紙アニメ『二羽の小鳥』、歌に合わせて画面がメタモルフォーゼし続けるベルナール・ロンプリの『マリー』、1匹の蚊から大宇宙にまでズームするエヴァ・スザッズの『コスミック・ズーム』、ロン・チュニスの爽快なドローイングの『風』、後1977年に『砂の城』という傑作を発表するコ・ホードマンの初期作品『不思議なボール』『マトリオスカ』、当時はまだその存在の意味の大きさを知らなかったブジェティスラフ・ポヤルの『見えるか見えないか』『バラブロック』等々がありました。
 作家性と芸術性を併せ持ち、政治色は薄く、明るい印象を受け、目にも楽しい作品群はそのまま、アニメーションの実験学校としての側面を持ち、有望な若手に制作と発表の場を与えるNFBの性格が反映されているように思われたものです。

 その後も、斬新なガラス絵アニメーションの手法で『ザ・ストリート』『ザムザ氏の変身』等の衝撃的な作品を送り出すキャロライン・リーフ、アレクセイエフのピンスクリーンの技法を受け継いだジャック・ドゥルーアン、『ビーズ・ゲーム』『死後の世界』『パラダイス』と哲学的な作風のイシュ・パテル等、新しい作家の登場はそれぞれにセンセーショナルなものでした。
 現在、NFBは縮小傾向にあるとはいえ、海外作家の制作の場として開かれ、国際アニメーションフェスティバルではNFBの冠を戴く作品が多く見られ、また各地で特集上映が企画されたり、作品集のDVDが発売されたりと、NFBは日本に馴染み深いものになっているように思えます。

 さて、NFBといえば、ライアン・ラーキンを落とすわけにはいきません。
 『シリンクス』『歩く』『ストリート・ミュージック』。ライアン・ラーキンの登場は本当に光り輝いて見えたものです。木炭画による『シリンクス』の繊細さは天賦の才を思わせましたし、紙に軽やかな水彩で描かれた『歩く』『ストリート・ミュージック』の自由で伸びやかな精神と表現には誰もが一目で魅了されました。
 新宿西口にはまだフォークゲリラの生き残りが活動していた時代、若者文化が明日の世界を変え得るのだと信じられた時代、「モーレツからビューティフルへ」のCMのように世の中がナチュラリズムへ向かおうとしていた時代。ラーキンの作品はそうした時代相ともぴたりと合い、彼の作品こそが当時の私たちにとっての「我らのアニメーション」でした。心のおもむくままに、紙に直接描いてフィルムに収めるというシンプルな技法は誰にもできそうに思えて、彼に刺激されて自主アニメを作り始めた人も多かったと思います。彼は、私たちの時代そのものでした。
 長髪で美形だった彼の消息は、しかしその後長らく途絶え、私たちが再び彼の姿を目にしたのは、2004年の広島国際アニメーションフェスティバルのコンペティションに登場したクリス・ランドレスの『ライアン』というCG短編の中でした。かつて才気の光をまとっていた彼はこの、彼についての人々の証言で綴られたアニメーテッド・ドキュメンタリーの中で、ホームレスとして路上で通行人に物乞いをしていました。
 アルコール中毒でNFBを離れたとの噂は耳にしていましたが、目の当たりにした彼の姿はショックでした。字幕のない中で「何も描けない」という意味の言葉が耳に飛び込んできました。その後、ラーキンとNFBとの深い確執を知り、一方的に抱いていたNFBへの幻想は砕けました。
 久々の新作の準備に取りかかり、再起の第一歩を踏み出そうとしていた矢先の2007年2月にラーキンは亡くなりました。肺ガンを患っていたそうです。
 遺作が完成しなかったのは良かったのか、惜しむべきなのかは分かりません。でも、映像の中で物乞いをしているラーキンの姿に悲壮感はなく、彼自身の作品のような自由な解放感さえ感じられたのでした。
 かつてLDに収められた以外、彼の作品集は未だ出ていません。

その31へ続く

(08.05.16)