アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その27 広がる世界

 入学して最初の夏休みには、学校のクラスメイトたちと一緒に、京王デパートの上階にあるレストランでウェイトレスのアルバイトをしました。大食堂をはじめ4つのレストランを日替わりで担当します。他のウェイトレスさんたち、調理の人、様々なお客さん。初めて接する外の世界が楽しくて、その夏はほとんど里帰りせずに過ごしたものです。短期のアルバイトでも、人と接する仕事を経験したのは有益だったと後々思います。
 東京に出てきたことで行動も広がり、石之さんの紹介で手塚ファンクラブの人たちと集まっては、富士見台の手塚先生のご自宅を訪問したりもしました。書斎でお目にかかった手塚先生はTVで拝見するのと同じベレー帽をかぶり、TVと同じ声で、当時まだ小学生だった長男の眞さんのことを「マコちゃん、マコちゃん」と呼んで、とても可愛がっておられました。それは後に1979年から連載開始される私の大好きなマンガ『マコとルミとチイ』そのままの世界でした。手塚先生はファンにとても親切に接してくださいましたが、初めておじゃまする私は言葉も出ず、ただもう自分の目の前に憧れのマンガの神様がいらっしゃることがとても信じられませんでした。帰り際に手塚邸の脇を歩きながら、甲子園の土のように、このお庭の土をひとかけもらって帰ろうかと本気で思ったものです。
 何の時だったか、虫プロダクションのスタジオのカット袋を1枚いただいたことがあります。残念なことに虫プロは1973年に業績悪化で倒産してしまうのですが、当時はまだ知る由もありません。憧れの「虫」マークの入ったカット袋を小脇に抱えて富士見台の駅に立つと、気分はもう虫プロのスタッフ。大いに舞い上がったものです。
 そうこうするうちに、ある日私は、ファンクラブの偉い方々から、とあるお寿司屋さんに呼び出されました。なんと、ファンクラブの会計をやってくれないかというのです。とまどいましたが、お寿司をご馳走になってしまったこともあり、引き受けました。会員名簿、会計簿等々を預かり、以後、ファンクラブの会費の送り先は私のアパートにということになりました。ところが、これがまずかったのです。
 アパートは、共同の玄関の上がり口に銭湯の入り口のような靴箱が並び、郵便物はまず大家のところにまとめて届けられ、それから大家が各人の靴箱に分け入れてくれる仕組みになっていました。電話も大家のところにしかなく、外からの電話は大家が有料で取り次いでくれることになっていました。そして、今からは信じられないことかもしれませんが、大家であるおばあさんは手塚治虫というマンガ家の名を知らなかったのです。連日「富沢様方 手塚治虫ファンクラブ」宛に送られてくる大量の封書に、手塚治虫という人物が無断で私の部屋にいついているのではないかと思い込んだらしいのです。ファンクラブのEという男性から毎日数回、私への様子うかがいの呼び出し電話が大家のところに入るのも、この疑いを増幅させ、とうとう少年課の刑事さんが私の部屋を尋ねてくるまでになってしまいました。刑事さんはさすがに手塚治虫を知っており、疑いは晴れたのですが、結局1年ちょっとで会計役は返上せざるを得ませんでした。でもこの間の、手紙を通しての会員との対応が後にアニ同でも役に立つことになりました。

 この頃のことですが、夏に泊まり込みでの大きな「日本漫画大会」がありました。全日本漫画ファン連合主催による大会で、Wikipediaによれば「1972年に第1回を四谷公会堂で開催し、参加者は約400名だった」とあります。この頃すでにアニ同をはじめとする各地のアニメサークルが集合しての全国大会(総会)が開催されてはいますが、公に開かれたファン活動の規模においてはマンガ関係のほうが上回っていたわけです。「漫画大会」の内容はシンポジウムや各種の展示、同人誌の販売等で、この中の同人誌販売の部分が枝分かれしてやがてはコミケット等にも発展して行くことになります。
 このあたりの歴史は立場によって見解が複雑なので端折りますが、この時の合宿でのこと。男女別に部屋で雑魚寝したのですが、私と同室の女性で1人、印象的な人がいました。とても個性の強い人で喋り方も独特、今でいう「おたく喋り」というか、高い声の早口でまくし立てるように喋るのです。語尾も「何々じゃないですかア」と押しつける感じ。でも決して嫌味ではなく、たちまち場のイニシアチブを握り、部屋にいた10人近い女の子たち全員にその喋り方が移って、しまいには皆同じ口調で話していたものです。名前は知りませんが、その人はその後どうしたのだろう、ファンダムの中で名を残したのだろうか、それともプロになったのだろうか等と思い出したりもします。
 名前を知らないというのは、当時すでに、私たちは相手の名を確かめることなく、お互いのことを「お宅は……」と呼び合っていたからです。この呼び方は奥さま言葉から来ていて、相手を「○○さん」と呼ばずに「お宅は」という言い方をすることで、目の前の個人ではなく相手の家庭全体に対する意味合いを含めた会話になるわけです。そこからマンガファンの間でも「お宅は」という言い方をすることで、相手への呼びかけと共に、その所属するサークルに対する意味も持たせたのです。「おたく」という言葉は中森明夫さんが1983年に『漫画ブリッコ』に連載した『「おたく」の研究』から来ていると言われていますが、実態はこんな風に遥か以前から続いていた呼び方だったのです。元が奥さま言葉ですから、案外この辺の女の子の間から発生したのかも知れませんね。

その28へ続く

(08.04.04)