アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その13 通信教育

 将来、アニメ関連の仕事をしたいと思うようになっていた頃のこと。とある雑誌の隅の広告が目に留まりました。アニメの通信教育の広告です。時期的にいって、民話社のものだったと思います。
 アニメの仕事に就きたいと思っても、『ホルスの大冒険』の迸るようなアクションや繊細な表情、凄まじいモブシーンに圧倒されてしまっていた私には、自分にアニメーター(動画家)が勤まるとは全く思えませんでした。ノートにマンガの真似事を描いていた経験からも、自分には絵に関するオリジナリティがないことは早くから分かっていました。でも、模写や、なぞり描きが好きだったことや、自分の、几帳面で根気強い性格を生かして、セルにトレスやペイントをする「仕上げ」の人になりたいと思っていました。
 当時はまだトレスマシンは普及しておらず、動画の線をセルに手描きで写しとるハンドトレスが中心でしたし、現在でこそコンピュータが導入されていますが、20世紀の終わり頃まではペイントは1枚1枚、セルに筆でアニメカラーを塗る手作業でした。その、細かな神経を使う仕事の内容から、仕上げスタッフのほとんどを女性が占めていたことも、その業種への親しみを増すものでした。
 高校2年の頃と思いますが、そうして私はアニメの通信教育の仕上げコースを申し込みました。群馬県の片田舎に住む女子校生には唯一の具体的なアニメ業界とのつながりに思えたのです。
 しかし、何せ30年以上昔のこと。その時の受講料や期間、講師の有無、テキストの内容等の細かいことはすっかり忘れてしまいました。が、とにかく受講を申し込み、同社で斡旋していたトレス台、タップ、アニメカラー各色、かくはん棒、彩色用の筆、ペン、白手袋、セル板、等々の用具一式が手元に届き、私は自室の座り机にトレス台を置いて受講を始めました。
 この時のトレス台は丈夫で使い勝手もよく、後に東映動画の放出品の動画机を安く入手してからもずっと手元に置いて何かの際に使っていましたが、オープロ在籍中に社内の某氏に頼まれ譲りました。タップは動画のバイトを始めてから、もっとしっかりとしたものに買い替えました。「刀は武士の魂、タップはアニメーターの魂」などと冗談まじりに言われていましたから。
 テキストの指導通りに受講作業を進め、さほど長くはなかったと思う受講期間は無事に終えました。修了証を貰ったような気もするのですが、これも定かではありません。受講満了した人に何らかの就業斡旋があったのか、あるいはホームスタッフ(内職)のような形で収入に結びつく道があったのかも不明です。仕上げの仕事を夢見ていたといっても具体的な就職はまだまだ先のことで、現実の私はそれ以上のことは求めなかったのです。
 民話社は後に潰れてしまいました(資料によると1974年に倒産)が、その後、1980年代の初めに主婦を対象にしたアニメ彩色の通信教育で、受講後の収入を宣伝しながら満足な指導を行わず、いつまでも受講終了させなかったり、ホームスタッフとして契約しても実際にはほとんど仕事を回さなかったりという、いわゆるインチキ内職商法がマスコミを賑わせたことがありました。聞くところによると、かつての民話社でも就業関連の苦情が出ていたそうで、私がそうした落とし穴にはまらなかったのは単なる幸運に過ぎません。
 それはともかく、このように仕上げの職を夢見ていた私が動画を生業とするようになったのはほんの偶然からで、今でもふと、やはり仕上げをやってみたかったなと思う時があるのですが、今年の4月、とある上映会の中で古いニュース映像を見る機会がありました。「アニメの自主製作にかける若者たち」という内容のニュースで、その中で、ハタチ前の私は動画机に向かってセルの彩色の筆を動かしていました。夢は思いがけない形で叶って、しかも映像として定着して残っていたのです。何か、とても不思議な気持ちがしました。

 現在では一部の例外を除いて、セルを使わずに動画をコンピュータに取り込んでのデジタル仕上げがほとんどです。同じ1枚の絵を複数写しとって寸分の狂いもなかったと讃えられる技量を持つ人もいたハンドトレスの技術も、自分の持ち分の仕事が終わったアニメーターが今度は鉛筆を筆に持ち替えて彩色の手伝いに回る多忙な中にも微笑ましい作業風景も、またハンドトレスからマシントレスに行程が変化した後に、動画の個人差のある鉛筆の線をいかにしてよりよくセルに転写させるかの裏技的工夫も、みんな過去の歴史になってしまいました。一度失われた技術は復するには難があるでしょうし、セルという物体をカメラで撮影していたことによって実は得られていた質感など、失われて初めて気づくこともあるのですが。

その14へ続く

(07.08.03)