アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その123 最終回 アニメーションは宝箱

 長く続けさせていただいたこの連載も今回で終わります。お読みくださった方々、ありがとうございました。編集部の方々、色々お世話になりました。
 振り返ればいつでもそこにアニメがありました。苦しい時も嬉しい時も、病める時も健やかなる時も。アニメは私の人生の最高の伴侶でした。アニメからもらった感動は希望を生み、笑いは明日への活力となり、日々を過ごして来ました。
 2009年には私の4冊目となる自主同人誌「みんなで語ろう2008」を出しました。「FILM1/24」時代からの友人と、mixiを中心としたネットでつながった友人たちに声をかけ、アニメのプロ、アマ取り混ぜてのにぎやかな誌面となりました。同誌のモチーフとなった2008年には、2月に第8回ラピュタ・アニメーションフェスティバルの審査員に呼んでいただき、5月には京橋フィルムセンターで現存する日本最古のアニメ『なまくら刀』が公開され(私は定員オーバーで入場ならず残念でした)、8月に第12回広島国際アニメーションフェスティバルがあり、10月には日本各地のアニメファンが集う全国総会に約30年ぶりに参加しました。懐かしいアニドウの上映会にも行きました。いずれも多くの出会いがあり、楽しくも有意義な時を過ごしました。この年が自分の人生のピークになるだろうとの予感はどうやら当たっているようです。2008年に出会った人たち、起こった事柄の全てに感謝しています。
 この連載を通しても多くの出会いがありました。長く消息の知れなかった人、探していた人とも再会できました。思いがけない出会いもありました。直接、あるいは編集部を通してご意見や感想をくださった方々に感謝します。
 遡りますが2004年には、ご縁あって、ふゅーじょんぷろだくとから単行本「アニメーションの宝箱」を上梓しました。この本ではアニメの歴史を追いながら古今東西の傑作の紹介に努めましたが、作品の選定に自分なりのルールを設けました。その時点で何らかのソフトで鑑賞可能であること、スチルの掲載ができるもの、の2点です。アニメというのは、百聞は一見にしかずの見本のような世界ですから。実際にはページ数と編集作業の関係でごく一部に例外が生じましたが、このルールは効果を発揮したと思います。しかし反面、この枷を設けたことによって多くの愛着ある作品を外さざるを得ませんでした。その際の残念な思いを少しでも晴らすべく、この連載になるべく多くの人と作品を取り込もうと意図したのですが、アニメの世界は余りにも広大でやはり今回も力及びませんでした。「FILM1/24」の各号の紹介を延々と続けてきたのも、自分史であると共に、それによって少しでも多くの作家と作品を取り上げることができればと思ってのことです。アニメーション史上の芸術作品とTVアニメとを同列に扱うのは自分の志向に素直に従ったまでです。アニメーションに上下なし。これが私の信条です。TVアニメに目もくれないのも、反対にTVとその派生作品しか見ようとしないのも、どちらももったいないことです。ほんの少し視野を広げれば、そこには素晴らしい世界が広がっているのですから。
 「アニメーションの宝箱」の時には取り上げる本数に限りがあり、多くのTV作品をこぼしてしまいましたので、この連載ではなるべくそちらをすくうべく努めましたが、やはり限界があり、タイトルすら上げられない作品が多数残ってしまいました。これは私の今後の課題としたいと思います。

 では、なぜこんなにもアニメが好きなのか。そのことを連載中、考え続けていました。何となく分かったのは、それがアニメであるからということです。禅問答のようですが、フランスのマルジャン・サトラピ監督が自らの半生を描いた自伝的長編『ペルセポリス』(共同監督=ヴァンサン・パロノー)を感動をもって見た時、女性の半生を描くこの題材で実写映画だったら自分は多分映画館までは見に行かなかったろうと思いました。そしてアニメにとって重要な条件のひとつに、対象の抽象化があるのではないかと思ったのです。作画や切り紙や人形や砂やクレイ、あるいはフィルムの傷や光といったものであっても、その表現を選んだ時点ですでに抽象化が始まっています。どんなにリアルな表現であったとしても、実写映画のように対象をそのまま写し撮るのではなく、アニメによる抽象化の過程を経ることによって緩和と昇華が行われ、それを受け容れることができるのではないかと思います。自然界に実在する事物をコマ撮りした作品でも、そこには作者の思惑や狙いが加わります。私は恐がりで生(き)のままでは受け容れられないことがたくさんあります。それを飛び越えさせてくれるのがアニメというツールなのです。実写だったら残虐そのものの『新世紀エヴァンゲリオン』の暴走も、正視するにはつらい展開の『魔法少女まどか★マギカ』も、優れたクリエイターの才能というフィルターを通して描かれたアニメだからこそ享受が可能になっていると思うのです。現実逃避とはまた違う、そのものに立ち向かうための力に、アニメはなっていると思うのです。
 もちろん、アニメ独自のアニメートの快感に深く魅入られていることは言うまでもありません。かつて動画マンとして仕事をしていた頃の、自分の描いた絵が動く驚きと喜びは今も忘れられません。先に上げた抽象化はものごとのエッセンスの抽出でもあります。あることを叶う限り最良の状態で作品として差し出すことのできるジャンル。それがアニメではないかと思うのです。SFでいうセンス・オブ・ワンダーにも似た感覚。アニメから得られるその驚きと喜びと感動とを求めて今日も私はアニメを見るのです。そこにアニメ作家の作品と商業作との境は全くありません。『線と色の即興詩』の瞬間の美も、『わんぱく王子の大蛇退治』の迫力も、『フミコの告白』の軽やかさも皆、アニメの世界に輝く星です。
 『ホルスの大冒険』を見て、アニメでこんなことが描けるのか! と激しく感動した日からずいぶん歳月が経ちますが、そうした未知の感動を与えてくれる作品は増すばかりです。『岸辺のふたり(ファーザー・アンド・ドーター)』の深遠や『アズールとアスマール』の哲学的な世界も、すでにこの世にない人をスクリーンに再生してみせた『イリュージョニスト』も、アニメだからこそ可能になった世界の中でアニメならではの描写によって深い感動を与えてくれます。近年最も深く感じ入ったのは3DCGによる長編『ヒックとドラゴン』です。スクリーンの中に実感を伴って広がる舞台、生き生きとしたキャラクターたち。前にも書いたかもしれませんが私は前向きで決してあきらめずに進むキャラクターが、ドラマが大好きなのです。そうした作品に出会うために生きていると言っても過言ではないほどに。
 技術の発達と共に最近はアニメと実写との区別がつけにくくなってきました。俳優の演技を取り込み、3DCGに移し変えた作品、近作では『タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密』がそうですが、単純にアニメといっていいのだろうかとも思います。「すべての映画はアニメになる」とは押井守さんの著書のタイトルですが、それも誇大な表現とは言えない時代になりそうです。そうした変化するアニメの世界に柔軟に心を添わせつつ、これからもずっとアニメと寄り添い、アニメならではの驚きと喜びと感動とを探し、自分の中の「アニメーションの宝箱」に収める宝ものを増やしながら生きていけたらと思います。アニメの世界、それ自体が巨大で多彩な宝箱であるのですから。
 技術ばかりかメディアも激変しています。フィルムしかなかったところへビデオが現れ、LDが現れ、DVDが生まれ、Blu-rayに、さらにまたその次へ移ろうとしています。意見の交換も、同人誌からパソコン通信を経てインターネットのブログやSNS、twitterにフェイスブック……こちらは場が変わるにつれ、薄いつきあいになっていくようで気がかりではありますが、自分なりの足場を守って行くこととしましょう。
 それにしても振り返れば様々なことがありました。私は、トルンカの人と作品が好きです。運命的に出会い、人生の折々に邂逅を繰り返しました。その作品は雄渾の叙事詩や文明への問いかけから艶笑譚まで多彩です。その作品も人生も多くの賞賛と尊敬を集めながらいまだ解けぬ謎に満ちています。私のささやかな人生の喜びも悲しみも、痛みや傷も、全てはトルンカの遺した謎に、あるいは真実に少しでも近づくことに役立つのなら、過ごしてきた意味もあろうかと思うのです。
 最後に、これを読んでくださる皆様それぞれが、アニメという巨大な宝箱の中から自分なりの宝ものを見つけ出せますように。一緒に進んでいきましょう。

おわり

(12.01.13)