アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その117 転勤、広島へ

 1985年は2人目の子供を身ごもり体調がすぐれずTVも映画も全くといっていいほど見ていません。『幻夢戦記レダ』や『天使のたまご』といった話題作は後にレンタルで見ました。出産は8月。ちょうどこの月に日本のアニメーションの歴史的エポックとなる広島国際アニメーション・フェスティバルの第1回大会が開催されていますが、その時点では幼子2人を抱えた私にとって広島は遠い西の国でした。
 ところが翌1986年、何という運命の糸か、五味の広島転勤が決まりました。引越しを前に家族揃って宮崎さんの仕事場へご挨拶にうかがいました。ちょうどスタジオジブリの第1回作品である長編『天空の城ラピュタ』の制作中でした。子供を育てるには都会よりも地方都市の方がいいかもしれませんねと言っていただき、記念に宮崎さんが関わった中で私が一番好きな『パンダコパンダ』のイラストを色紙に描いていただきました。現在の場所に移る前のまだ小さかったスタジオの奥から、原画頭を務める金田伊功さんがわざわざ出て来て挨拶してくださったのには驚き感激しました。アニメ界を離れて何年も経つ私のことなど、とうに忘れているだろうと思っていたのです。できる人は偉ぶらないことが身に沁みました。

 『天空の城ラピュタ』公開は1986年8月。毎年5月に行われる広島最大のお祭りフラワーフェスティバルの一角に設けられたスポンサー出店の屋台で、宮崎さんのイラストの入ったラピュタドリンクを買ったものです。空きビンは当然洗って保存してあります。この商品のCMは実写の少年少女がキャラクターに扮するという異色なもので、今も印象に残っています。
 『ラピュタ』はテディスの要塞攻防などいくつもの名シーンを持ちながら、制作当初の古典的な冒険活劇を作るという目的は達せられていないと思えます。4月のチェルノブイリ原発事故や様々な現実に絡め取られて、漫画映画としての飛翔ができなかったような気がします。それまで私たちを感動させてきたように人間の肉体の力で立ち向かうことをせず、「バルス!」という滅びの呪文によるパズーとシータの心中で解決を図ったことは漫画映画の敗北ではないかと思うのです。しかし主題歌「君をのせて」は奇跡かと思うほどに素晴らしく、カセットテープに繰り返し録音して家事をしながらエンドレスで聴いていたものです。
 内容の是非はともかく、ラピュタの存在は私にとっての救いでした。子育てはゴールの見えない、地を這うような日々の繰り返しです。おまけに当時は母原病という言葉が流行っていて、子供個々の生得的な違いを認めず、全ての問題は母親の育て方の結果であるという世間の考え方のもと、母親は滅私奉公的な育児を暗黙の裡に強いられていました。イクメンという概念など微塵もなかった頃です。そんな中で空を見上げ、この空のどこかにラピュタが、優しいロボットが花を摘みキツネリスが遊ぶ天空の城があるのだと思うことが、私の心を支えていました。ちょうど高校の受験勉強で苦しい最中、空にジャングル大帝の形の白い雲を探していた頃のように。これらの経験から私は、ファンタジーは人の心を救い支える力になり得ると断言できるのです。今この瞬間も福島の空を見上げている人がいるのではないかと思います。

 広島には1995年3月までの足かけ10年いました。とても住みよいところでしたが、首都圏と比べTVのチャンネル数が少ないのには愕然としました。あったとしても実際には見る時間など取れなかったでしょうが、それでも「アニメージュ」の記事の何分の一かが理解できないのはショックでした。かつて「FILM1/24」を編集発行していた頃の、地方読者の「知識だけがたまって実物が見られない」という嘆きをそっくり追体験する思いでした。
 アニメ史的には1980年代後半がいわゆるアニメ冬の時代の底辺に当たりますが、私にとっては歴史づけ以前に、肉体的にも環境的にも冬の時代だったのです。この頃ショックだったのは、某誌から『鎧伝サムライトルーパー』特集への寄稿を求められたのですが、広島ではリアルタイムで放送していなかったか視聴の難しい時間帯だったかで見ておらず、応えることができなかったことです。それまでアニメについての文章を、見ていないという理由で断るなど考えられないことでしたから。
 それでも広島にもアニメファンはもちろん多く、市内一の繁華街である中区にはアニメグッズ等も扱うマニアな店、中央書店があり、そこの店長さんと親しくなって情報交換等をしていました。
 この頃は日曜日の食事時だけがやや落ち着いてTVを見られる時間でした。『愛の若草物語』、「仮面ライダーBLACK」&「RX」くらいしか全話を見ていません。「スケバン刑事」シリーズや「ミスター味っ子」等は後に再放送やレンタルで見ています。そんな風に切れかかっていたアニメとの糸を結び直してくれたのがある日偶然見た『エスパー魔美』でした。放送そのものは1987年4月から始まっていますが、私が出会ったのは1988年7月の第62話「オロチが夜来る」でした。多分「オロチ」の語に反応したのだと思います。この話は夏らしくスリラーめいた演出で、たまたま見たのがヘビ人間が歩いている場面でした。実は魔美の悪夢だったのですが、一瞬にして何事かと画面に引きつけられました。そして見事な解決。それから気をつけて見るようにし、地に足の着いた生活感ある描写と魅力的なキャラクター、藤子・Fさんの原作を生かしつつアニメ独自の味つけもあるストーリー、全体に漂うSF感覚の心地よさ等で大好きな作品になり、これを通してチーフディレクターの原恵一さん、脚本の桶谷顕さん、もとひら了さん等の名前を覚えました。皆、作家の良心といったものを持った方々と言えると思います。
 映画もごく限られたものしか見ていません。『オネアミスの翼』は監督の山賀博之さんをはじめ、かのDAICONフィルムのメンバーが手がけると知っていたので絶対見逃せないと意気込んで出かけましたが、期待に違わぬ出来でした。凄まじいばかりに描き込まれた画面密度もさることながら、作品成立の過程がそのまま内容と二重写しになっており、見事に彼ら自身のロケットという名の映画を打ち上げた力に敬服します。過程と作品が重なるのはかつての『ホルス』を彷彿とさせますが、『ホルス』がそうだったように今やメンバーそれぞれが日本のビジュアルシーンを担う逸材へと成長しており頼もしい限りです。
 『となりのトトロ』と『火垂るの墓』という、現在では絶対信じられない組み合わせの2本立ての時は迷いました。果たして幼児に見せていいものかと。苦肉の策で私が先に見て判断することにし、結局『トトロ』のみを映画館で見せることにしましたが、『火垂る』は今も私にとって充分なトラウマ映画になっています。傑作と認めるにやぶさかではないけれど二度と見る気になれないのです。『トトロ』も、実はルーツである『パンダコパンダ』の方がずっと好きです。『トトロ』に関してはちょっとした思い出があります。まだ関東にいて宮崎さんの家にしばしばおじゃましていた頃、昔のイメージボード等を見せていただいたことがあり、その中に『トトロ』の原案になる所沢のお化けの話がありました。脚が何本もあるネコバスもすでに描かれていて、猫好きな私はそれがとても気に入って「いいですねえ」を連発する内に、思いがけずいただけることになったのです。後にある雑誌の対談で、そのネコバスのボードについて宮崎さんが「人にあげてしまって」と発言されているのを読んだ時は大いに焦ったものです。

その118へつづく

(11.10.07)