アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その114 また、会えたね!

 新居は東京に程近い埼玉県戸田市。最寄り駅は西川口でした。互いの友人たちもしばしば尋ねてくれて賑やかでした。ある日、片山雅博さんが私に、宮崎さんの新作長編『風の谷のナウシカ』のムック編集の話を持ってきました。宮崎さんは「アニメージュ」1982年2月号から「ナウシカ」のマンガを連載しており、この長編アニメ化が進んでいたのでした。出版社はどこだったか失念してしまいましたが、いわゆる大手ではなかったと思います。とても興味深い話で、私は、制作スタジオの日々の動きやその時々のスタッフの思いを記録する、今で言う制作日誌スタイルを提案したりして乗り気でしたが、結局その企画は立ち消えになってしまいました。初監督長編の『カリオストロ』が興行的には失敗した宮崎さんは世間的にはまだ無名に近く、その関連の出版はリスクを伴うものだったのです。現在からは想像もつかないでしょうが。
 宮崎さんの東映動画時代の同僚、原徹さんが場を提供してくれたトップクラフトのスタジオで制作準備中の宮崎さんの元は何回も訪れたことがあります。小さな用紙に描かれた紋様のようなタイトルバックのイメージボードも見せてもらい、独特な文明観を感じました。机の横にはハエトリ草やウツボカズラ等の食虫植物の鉢がいくつか置かれたり吊られたりしていました。何らかの腐海のイメージとなっていたのかもしれません。『ナウシカ』が完成した後にそのことを尋ねると、もうすっかり忘れておられましたが。こんな風に目の前のことだけに集中しきり、終わるときっぱりと抜け出して次の目標に向かう、それが宮崎さんのやり方なのでしょう。
 このムックの話の少し後に宮崎さんから直接電話をいただきました。高畑さんと共同で事務所を設けるにあたって事務を担当してもらえないだろうか、というお話でした。高畑さんと2人で相談している時、同時に私の名が出たそうで光栄なお話でした。しかしあいにくその時、私はつわりで臥せっており、残念ながらお断りしました。それでもこのことを思うだけで一生の支えになります。
 やがて安定期に入り、つわりも治まった7ヶ月の頃、今度は徳間書店から電話がありました。アニメージュ文庫の1冊として『未来少年コナン』を予定しているが引き受けてもらえないだろうか、との用件でした。経過は順調ではありましたが7ヶ月というと一般に万一の早産も考えられなくはない時期だったので初めはお断りするつもりだったのですが、当時『アニメージュ』の副編集長だった鈴木敏夫さんがわざわざ出向いてくださり、西川口の駅前のパーラーで話をうかがいました。髪も黒々と若い鈴木さんは闊達な様子で率直で、「アニメージュ」に配属されて初めて触れることになったアニメの世界に対する強い意欲を感じました。編集部ではなるべく早くこの文庫を作りたいとの意向でした。『ナウシカ』の宣伝も兼ねていたでしょう。鈴木さんの熱意に打たれ、出産予定までには可能だろうとの目論見で引き受けることにしました。元々『コナン』が文庫になるなど願ってもない話でしたから。それから2人で様々な話をしました。ちょうど「アニメージュ」では『ナウシカ』の漫画は休載中だったので、鈴木さんに映画が完成した後、連載は今までどおり再開できるでしょうかと尋ねてみました。「難しいかもしれません」と答えが返ってきました。実は私もそう思っていました。宮崎さんは、『コナン』にしろ『カリオストロ』にしろ、自作の中でキャラクターを解放します。ひとたび解放してしまったら、その先はもうないのではないかと思ったのです。
 実際はご存知のように、映画ではひとつの状況が収束に向かっただけで、希望の芽吹きは示されるけれど、その先の大きな物語は解消されないという終わり方になっています。「アニメージュ」の連載も無事再開し、紆余曲折を経、長い歳月を要して思いがけない方向で一応の完結をみました。しかし当時は連載もほんのとばくちであり、宮崎さんにとっても『カリオストロ』の興行的失敗がありますから、『ナウシカ』の映画化は宮崎駿という作家にとっての正念場であったのです。それだけにここで全力を注いでナウシカを解放してしまったら、以後の展開はどうなるだろうとの危惧を私は抱いていたのでした。
 『ナウシカ』の映画化には杖になってくれる存在が必要です、と私は言いました。行き詰まった時に支えてくれ日々の相手になってくれる存在が。『コナン』の時には気心の知れた大先輩・大塚康生さんが仕事面はもちろん精神的な支えとなりました。『ナウシカ』では、これも旧知の盟友・高畑勲さんがプロデューサーの大役についており、心強いものがありました。『ナウシカ』はそれまでの日本のアニメにはない独特の世界観を持った映画になること必至でしたから、取り分け音楽が重要な役割を果たすと私は思っていましたので、その面に造詣深い高畑さんはまさに適任でした。そんなことを鈴木さんに話し、また高畑さんと宮崎さんの演出法の違いについても話しました。高畑さんは冷静に世界を構築していく理論の人であり、宮崎さんはまず自分の描きたい絵こそが先にある情動の人という、今ではもう常識の範囲内の事柄ですが、「アニメージュ」を通して2人を知り始めた鈴木さんは熱心に耳を傾けてくれ、「ぼくは女の人であの2人の違いを明確に指摘した人に初めて会いました」と感に堪えない面持ちでした。
 実際の編集は小沢さんという女の人が担当になり、私の身体を気遣って編集部と我が家を往復して資料と原稿を運んでくれました。編集部側の当初企画はストーリーボードを絵物語風に構成するというものでしたが、これはボードと実際のストーリーの違いからボツになり、名シーンで綴る『未来少年コナン』の世界と決まりました。小沢さんと細部を詰めながら全体の構成をし、AR台本と絵コンテを参照しつつ文章を書き、友人が融通してくれたコマ送りのできるビデオデッキを駆使して必要な場面を指定し、簡単なスケッチを描いてそれを元にスチルを起こしてもらいました。体調が万全だったら編集部まで通って直接このコマと指定することもできたのですが、そのぶん、小沢さんが頑張ってくれました。巻末の「宮崎駿『コナン』を語る」は、かつての『コナン』本を下敷きに、今まで色々な場面でうかがった話を加えて加筆再構成しました。誌名の「また、会えたね!」はラナのセリフ「コナン、会えて本当によかった」から採っています。『コナン』は出会いの奇跡の物語ですから。表紙は私としては、おさげ髪のラナのイメージボードを使いたかったところですが、元気溌剌なコナンの本には編集部案のあの満面の笑みの絵で正解だったと思います。小沢さんは週に1、2回のペースで我が家に通ってくれましたが、会うたびに私のおなかが大きくなっているのに驚いていました。当初の予定では出産予定の10月の前に完成だったのですが少しずれ込み、ゲラの最終チェックは群馬県の実家で産院から退院したばかりのふとんの中で行ないました。最後のゲラは小沢さんが出産祝いの銀のスプーンと一緒に直接持ってきてくれました。カラーのスチルを思うさま使うというのは、「1/24」時代の私の夢のひとつでもありましたから、その実現は感無量でした。著者名は現在の五味洋子ではなく旧姓のままの富沢洋子にしました。これを通してかつての読者たちに私の健在と再始動が伝わればと思ったのです。その後に引き受けた「SFアドベンチャー」誌の『名探偵ホームズ』評からは五味洋子の名を使っています。
 また後には同じアニメージュ文庫の「あれから4年… クラリス回想」の監修をやらせてもらいました。ここに載っているスチルは、原画ではなく動画のコマを使ったものがまま見受けられ、例えば口の開き方が中間の形だったりするので、ずいぶん指摘したのですが力及ばず直り切っていないのは心残りです。一般の人には分からないことなのかもしれませんが。
 「また、会えたね!」では初めて正式な契約書を交わしましたが、その後転勤で主に西日本の各地を転々とする私の後を追うように重版の連絡が届き、今も書店に並んでいます。もちろん全て宮崎さんと『コナン』という作品自体の力あってのことですが、やはり嬉しく光栄なことです。

その115へつづく

(11.08.19)