アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その110 「1/24」第29号ほか

 「1/24」第29号は色々と節目になった号でした。まず、この号の奥付から私(富沢洋子)は編集から発行人に変わっています。これは並木さんから自分を編集長にしてほしいとの申し出があったからで、私としては特に深く考えることもなく承知し、互いの表記を交代することにしました。私にとっては編集人も発行人も実際にしていることは変わらないので、どちらでもよかったのです。大事なのは名ではなく、この場を維持して皆をまとめ、発行を続けていくことだったからです。
 そしてちょうどこの頃、アニドウは荻窪の鈴屋ビルから少し離れたグリーンパークというビルに引っ越しました。通称もそれまでのベルバラヤからデンバラヤに変わりました。近くに電電公社(現・NTT)があったことと、当時TVで「電子戦隊 デンジマン」を放送していて私がハマっていたからです。その前の「バトルフィーバーJ」もよかったですが、「デンジマン」はデザインが垢抜けていてアクションもシャープ、話もシリアスとギャグのバランスがよく、毎週楽しみでした。皆で後楽園遊園地のショーを見に行ったこともあり、客席後方から滑車を使ってデンジブルーが私の席の横をすり抜けていった興奮は今もまざまざと覚えています。私はこのデンジブルーこと青梅大五郎を演じた大葉健二さん、後に『宇宙刑事ギャバン』で一世を風靡する大葉さんの大ファンで、転勤で香川県に住んでいた頃、レオマワールドという遊園地で大葉さんが主宰するアクションクラブのショーを見、ツーショット写真を撮ってもらったのは自慢のひとつです。
 デンバラヤへの引越しの少し前に、私自身も長年住んだ東大泉のアパートから荻窪の奥のアパートに越しています。ここは2階建ての1階がひとつの部屋になっていて、6畳と3畳の和室に4畳半のダイニングキッチン、バス、トイレがついていました。それまでずっとバスなしトイレ共同で、4畳半コンロ置き場つき、6畳台所つき、6畳+3畳台所つきときて、今回でようやくバス、トイレつきとなり、双六をひとつ上がった心持ちでした。場所的に荻窪と阿佐ヶ谷の中間あたりのやや不便なところだったので、家賃はそう高くはありませんでした。それまでは深夜に仕事を終えても帰るバスがなく、タクシーを使うこともあったのですが、運転手さんに「自分は大抵の人は何の職業か分かるんですが、お客さんは分かりませんねえ」と言われたこともありました。深夜でも水商売風には見えず、アニメーターという職業など世間に知られてはいない時代でしたから。引っ越してからは、会社に泊まりこむこともなくなりました。それまでは会社の備品の布団にくるまって小部屋で寝たり、リビングのソファベッドに寝たりしていました。夜中に進行さんが上がりを取りにくるのでドアの鍵は開け放しで、今思うと物騒な生活をしていたものです。つくづく若さは恐いもの知らずです。
 デンバラヤは当然ながら私のアパートよりも広く、2部屋にバス、トイレ、洗面所、当時はまだ珍しかったベランダもありました。2階のベランダから見る景色はとても気持ちよかったものです。折角のバスタブは使う間もなく『コナン』本の在庫がぎっしりと積み上げられてしまいましたが、台所は重宝して、皆でほか弁を食べる時に手作り味噌汁を振る舞ったりしたものです。編集は手前の部屋に動画机を並べ、奥の部屋に座卓を置いて作業場としました。
 北海道の浦河から飯田勉さんが上京してきたのはこの頃かと思います。ステーキ屋さんでボーイのアルバイトをしながら、アニドウの活動を手伝ってくれました。給料が出た時などに皆で店に行ったりしましたが、しがないアニメーターのこと、私がステーキを食べたのはこの店が初めてかもしれません。飯田さんと書くと別人のようなので当時のままに飯田くんと書きますが、立体造形物が好きなようで、休みの日などはデンバラヤで大きい体を丸めるようにして『カリオストロ』の指輪を作ったりしていました。できあがったらあげますと言ってくれたけれど、とうとう受け取るチャンスを逸してしまいました。飯田くんは後に飯田馬之介と自称するようになりますが、北海道育ちの純朴さや朴訥さを残した大きい体は牛の方がぴったりな気がします。実家が酪農家のマンガ家、荒川弘さんの自画像はブチ模様の牛ですが、飯田くんにもそんなイメージがありました。今も荒川さんの自画像を見ると、志半ばで天に召された飯田くんを思い出してしまいます。
 鈴木伸一さんのスタジオ・ゼロのアルバイトをやらせてもらったのはもう少し前かもしれません。場所は新宿のビルで、鈴木さんが1人で原画を描いておられ、芳香消臭剤ピコレットのCMの動画等をやらせてもらいました。廊下の先は藤子不二雄さんの仕事場でした。このドアの向こうに藤子先生が、と思いながら気後れしてついに一度も訪れることはありませんでしたが。鈴木さんにラーメンをおごっていただいたのも自慢のひとつです。何せあの「ラーメンの小池さん」その人なのですから。ただ当時はつけ麺が大ブームで、おごっていただいたのもつけ麺だったのが唯一の心残りです。しばらくしてからグループえびせんの斉藤美緒子さんが鈴木さんのアシスタントで入るようになりました。美緒子さんはいつもにこにこと明るく人当たりのいい方でしたが、故郷へ引き上げた後に運転する自動車の自損事故に遭い、還らぬ人となりました。一緒に乗っていた親戚の幼いお子さんは傷ひとつなく無事だったそうで、優しい美緒子さんは心臓破裂の重症を負いながらも自分の体を楯にしてその子を守り抜いたのでしょう。今も広島アニメフェスの会場を歩くと、向こうから美緒子さんが微笑みながら姿を現わすような気がしてなりません。

 あとこの頃の思い出といえば、日劇でゴジラ映画全作の回顧上映が行なわれたことです。それまで池袋の文芸坐などで特集オールナイトはよく組まれていましたが、これは大劇場で日替わりの大特集ですから、ファンは「ロケットの夏」ならぬ「ゴジラの夏」と言って盛り上がったものです。何と言っても場所が日劇というのが目玉で、『ゴジラ』第1作でゴジラによって破壊される日劇を当の日劇の中で見るのはまた格別で、そのシーンは大変などよめきが上がったものです。私はこの催しに前売りの通し券を買って毎日通いました。今も机の引き出しにはパスケースに入れた通し券がそのまま残っています。大反響を呼んだこの催しによって、長らく休止していたゴジラ復活の気運が高まるのでした。

 思い出話が過ぎました。肝心の第29号は1980年4月発行。全32ページ。デンバラヤに越したのが3月ですから、新体制最初の号になります。先に書いたように、私としては編集と発行人を交代しても特に変わることはないだろうと思っていたのですが、実際にできた号は微妙に様子が違って見えました。一番目立つのは、裏表紙にぱふ編集室の「ぱふ」4月号と奇想天外社の「SFアニメ大全集」の広告が載っていることです。両方とも並木さんの力によるもので、特に奇想天外社とは奇想天外シネマテーク等を通して親しい関係でしたが、内部事情はともあれ広告が入ると急に商業誌の感じがして見えます。
 表紙は『雪の女王』。これは巻頭記事である第5回35mmで長編を見る会で上映した『雪の女王』との兼ね合いになります。この上映会では、当時の日本海映画の協力で非常に状態のよいフィルムを提供していただくことができ、この時の画面が頭に焼きついているためか、後年のジブリ美術館ライブラリーでの劇場公開及びDVDには些かの不満を覚えるものです。
 前号から始まった座談会企画「アニメ乞食はなぜ?」は「業界を震撼させる覆面アニメーター座談会!」と題して6ページ。並木さんと友人の参加でA、B、Cの匿名表記で私は参加していません。副題に「人はこれをスキャンダル座談会と呼ぶ」とありますが、そのとおり、裏取りなしの放談だったので某社からクレームがつき、次号で謝罪を載せる羽目になっています。
 私はこの号で猫柳ヨウコの名で『銀河鉄道999』評を書いています。他には以前にも紹介した杉本五郎さんの「我がアニメとの出会い」、この時点での研究成果である小松沢甫さんの「持永只仁の足跡」、川本喜八郎さんの新作『火宅』と同じく岡本忠成さんの『鬼がくれ山のそばの花』を取り上げた、おかだ・えみこさんの「炎の家とそばの花」、大塚康生さんの解説入りで『ホルス』の準備キャラクターからグルンワルド等々。
 編集後記で並木さんが「次号にて紙面大刷新を計るべく準備中です」と書いています。その真意は何だったのか、今となっては知る由もありません。

その111へつづく

(11.06.24)