アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その5 もしも、あの時……

 何によらず、歴史について思いを巡らす時、そこには「もし……だったら」という考えが浮かびます。いわゆる「歴史のif」です。
 そんな目でアニメの歴史を見ると、そのポイントはTVアニメの始まりの時に向かいます。「もし、TVアニメの始まりが虫プロの『鉄腕アトム』でなかったら」と。
 仮に、手塚治虫氏が『鉄腕アトム』の放送企画を売り込まなかったとしても、その時点でTV放送が始まって10年が経っており、すでに「月光仮面」や「ナショナル・キッド」をはじめ様々な子供向けテレビ番組が放送されているのですから、TVアニメがそこに加わるのは時間の問題ではあったでしょう。
 でも、その始まりが違った形でだったら。
 実際の制作に見合った予算と、目に不自然なほどのバンクシステムを多用しなくてすむだけのスケジュールが許されるものであったら。

 TVアニメ草創の1963年当時、東映動画の長編アニメは『わんぱく王子の大蛇退治』を最大の輝きとして急速に斜陽の時代を迎えていました。東映動画は効率を求めて劇場用長編2本並行製作体制をとり、またTVアニメ時代に対応するために社内にTVアニメ班を置くようになりました。
 さらに64年7月には『まんが大行進』と銘打って『狼少年ケン』等のTVアニメ4本をまとめて上映する、後の『東映まんがまつり』の先駆となる興行が行われています。
 劇場用アニメは大きな曲り角を迎えていたのです。
 そんな中で、東映動画の作画の中心的存在である森康ニさんは、65年2月の『宇宙パトロールホッパ』、同年11月の『ハッスルパンチ』と、ホームグラウンドである長編ではなく、2本のTVアニメのキャラクターデザインと作画監督を務めています。両作共に、社内で力を養ってきた若い演出家とアニメーターの参加によって、確かな技術に支えられたモダンな感覚の作品に仕上がっています。
 ここで「歴史のif」が頭をもたげるのです。
 アニメーションという歴史の川の流れに『アトム』という流れが唐突に流れ込むことなく、自然な形で、劇場アニメとTVアニメがふたつの流れとして分かれていったなら。
 その分岐の最初が『ホッパ』や『ハッスルパンチ』のような、演出や作画等の技術的基礎のしっかりしたオリジナル作品から始まっていたならと。
 東映動画、そしてその親会社である東映はNETと太いパイプがありますから、TVアニメがここから始まっていたとしても、さほど不思議ではないのです。そうしたら、予算もスケジュールも、制作方法も、長編の映画作りの流れを汲む、もっと別なものになっていたのではないだろうかと思うのです。
 そうすれば、その後に続く他社の作品も、雑誌の人気マンガをTVアニメ化するのではなく、もっと自由な広がりがあり得たのではないかと。

 「if」はどこまでいっても「if」でしかありません。自分の子供時代を十二分に楽しませてくれた『アトム』を否定する気持ちも全くありません。しかし、「Nikkei Business」2007年2月12日号に、こんな記事があります。日本芸能実演家団体協議会の調査によると、アニメーターの1/4強が年収100万円未満であり、別の調査では業界の新規採用者の5割から8割が1年以内に離職すると。また、「週刊SPA!」3月20日号の特集「好きなことを仕事にしたら…こうなった」の中には「感動だけで続けられましたけど、労働環境が悪すぎてアニメに夢が持てなくなった……」という30歳、年収50万円の女性アニメーターの言葉が載っています。

 歴史の「if」はあくまでも仮定ですが、現実に、この状況を変革する道はないのでしょうか。わずかずつではありますが、そうした動きも聞こえてはくるのですが……。

その6へ続く

(07.04.06)