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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第12回 ヒット作の条件? テーマの切り替え

 『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』。この3作品に共通する事はなんでしょう? 3作とも、ティーンを中心としたファンに支持され、ブームを起こした歴史的なヒット作。1970年代後半のアニメブームのきっかけになったのが『ヤマト』、そのブームの頂点を成したのが『ガンダム』、1990年代後半のアニメブームの中心的存在だったのが『エヴァ』。正解だけど、それだけじゃない。実はこの3作品は構成的に似たところがある。いずれも、終盤でストーリーの方向性が切り替わっているのだ。テーマが切り替わったといってもよい。

 『宇宙戦艦ヤマト』は、もう30年も前の作品だ。若い読者には、未見の方も多いだろう。以下、クライマックスについて触れるので、これから観ようと思っている人は読まないように。人類滅亡まで365日という状況で、地球を救う事ができる放射能除去装置コスモクリーナーDを手に入れるため、宇宙戦艦ヤマトは14万8千光年彼方のイスカンダル星へと旅立った。宿敵であるガミラス星人と戦いながら、ヤマトの航海は続く。24話「死闘!神よ、ガミラスのために泣け!!」が事実上のクライマックス。沖田艦長が授けた起死回生の作戦で、古代進はガミラスを打ち破る。だが、戦闘の後、古代とヒロインの森雪の前に広がっていたのは、荒れ果てたガミラスの大地だった。それを見た古代達の胸には、勝利の喜びはなかった。古代は自分がやった事を悔いる。彼は言う。「我々がしなければならなかったのは、戦う事じゃない。愛し合う事だった」。アニメ史に残る名場面だ。
 それまでの『ヤマト』が常に好戦的な内容だったわけではないが、基本的には血湧き肉躍る戦争物である。敵は侵略者であるし、自分達が生き延びるためにガミラスと戦うのは当たり前の事であったはずだ。ところが、24話で古代の出した結論は、それとは逆のものだった。続く25話「イスカンダル!滅びゆくか愛の星よ!!」では、愛しあうスターシャと古代守が登場し、最終回「地球よ、ヤマトは帰ってきた!!」では古代と雪のドラマが描かれる。最終回ではデスラーとの戦闘もあるが、ヤマトは反撃らしい反撃はせず、デスラーは、自ら放ったデスラー砲を空間磁力メッキによって跳ね返されて倒れる。続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では、サブタイトルに〈愛〉の文字が入っているが、それが本当に愛の物語だったかどうかは、また別の話。24話の古代のセリフで『宇宙戦艦ヤマト』は、戦争物から〈愛〉のドラマに切り替わったのだ。これぞコペルニクス的転回。この切り替わりがあったから『ヤマト』は名作になったのだと思う。
 『ヤマト』がどのような思想の元に作られたのかは、ここでは問題にしない。ただ、ヤマトが、戦艦大和を改造したものであり、そこに乗り込んでいるのが日本人ばかりだという事を考えれば、太平洋戦争時の日本軍のイメージ、あるいはそれに対する憧れが、作品の根本にあるのは間違いない。僕達は『ヤマト』の宇宙へのロマンに酔い、絶望的な状況下のドラマに熱中し、そして、そんな前時代的な戦争物の部分にも魅力を感じていた。しかし、だ。『ヤマト』本放送の数年前に「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが流行った。僕達の世代は、まさしく戦争を知らない子供たちだった。そんな僕達にとって、古代による〈愛〉発言は納得できるものだった。そうだよな、やっぱり憎い敵だって、滅ぼしてしまってはいけなよなあ。多分、単なる戦争物もので終わったら、スカッとしたかもしれないけれど、感動はしなかっただろう。あそこで〈愛〉という概念を強引に持ち込んだ事によって、『ヤマト』は本当に意味で、若者のための作品になったのだと思う。愛という言葉が、今よりもずっと価値があった時代。ラブ・アンド・ピースの時代の話だ。

 『機動戦士ガンダム』は、前回も触れたとおり、シリーズ終盤で〈ニュータイプ〉の物語になる。シリーズ前半は、戦争に巻き込まれた少年達が、敵と戦いながら、何とか生き抜いていく姿が描かれていた。やがて、アムロ達のホワイトベースは正規軍に組み込まれ、その中で彼等は新人類であるニュータイプとして覚醒していく。後に作られた劇場版3部作では、第1作でマチルダが〈ニュータイプ〉という単語を口にしているが、TVシリーズで〈ニュータイプ〉の言葉が出たのは、ずっと後。シリーズ終盤である(多分、38話「再会、シャアとセイラ」が最初のはずだ)。
 当時、オタクという言葉はまだなかったが、アムロはマイコン(今で言うところのパソコン)好きの、やや内向的な少年だった。言ってしまえば、アニメに熱中する視聴者に近い存在だった。そんなアムロが、最新鋭のモビルスーツであるガンダムに乗り込む。機械をいじるのが得意だという自分の個性を活かし、ジオン軍の歴戦の勇士達と渡り合っていく。最初はガンダムの性能に頼っているが、やがて、一人前の戦士に育っていくのだろうと僕は思っていた。ところが、アムロとララァとの出逢いを契機に、『ガンダム』は〈ニュータイプ〉をめぐる物語となっていく。
 〈ニュータイプ〉とは、宇宙で暮らすようなった人類が進む次のステップであり、いわば新人類である。その物語のピークが41話「光る宇宙」だった。アムロとララァのニュータイプ同士の交信はSFドラマとして、インパクトがあるものだったし、僕も感銘を受けた。〈ニュータイプ〉の概念を取り入れた事によって、『ガンダム』は単なるリアルなロボット戦記ものではなくなった。SF性と人類の革新という大きなテーマが加えられたのだ。
 最終回「脱出」でアムロは、敵のトップであるザビ家を倒す事もなく、ライバルのシャアに勝つ事もなかった。ロボットアニメ的な勝利を手にする事はなく、自分に帰るべきところがあった事を確認して、物語は幕を下ろした。たとえば、アムロがザビ家を倒し、シャアに勝利し、その上で、これからニュータイプが築くであろう新しい世界の象徴として、仲間達とのニュータイプ的な交信を描く事も可能だったはずだ。だが、それは違うのだろう。今まであったようなヒーロー的な勝利は、多分、〈ニュータイプ〉の物語に相応しくなかった。それをやらないからこそ、アムロは新時代の主人公だったのだろう。勝利者にならなかったアムロは、前回に書いた「ロボットアニメと父権」の論旨で言えば、一人前の男にはならず、ニュータイプとなった。それはまるで、後のアニメの主人公や、アニメファンのあり方を予言しているかのようだが、これもまた別の話だ。ただ、あの最終回について、物足りなかったというような感想を目にした事はほとんどない。描かれたアムロの行動が、観ているファンの気分や価値観とフィットしていたのだろう。

 そして、『新世紀エヴァンゲリオン』。近年の作品だから、詳しい説明は必要ないだろう。ご存じのとおり、『エヴァ』はシリーズ終盤に〈心〉の物語となる。第弐拾四話「最後のシ者」のラストで、碇シンジは理解者であった渚カヲルを殺してしまい、自分の行為に苦悩する。それを受けて、第弐拾伍話「終わる世界」と最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」はシンジと、他のキャラクターの内的宇宙での葛藤が描かれる。設定的には、碇ゲンドウが進めていた人類補完計画が発動され、全ての人間の心がひとつになった世界での出来事という事になっている。第弐拾四話までにも、シンジの内的宇宙で物語が舞台になる事はあったし、彼や周囲のキャラクターが抱える精神的な問題も描かれていた。だが、やはり内的宇宙での展開は、あまりにアバンギャルドであり、視聴者にショックを与えた。設定的な説明や、一般的な意味でのキャラクタードラマは半ば放り出された事になり、その事がかえって『エヴァ』の話題性を高める事になった。

 『宇宙戦艦ヤマト』は戦闘もので始まり、クライマックスで〈愛〉がテーマになった。『機動戦士ガンダム』も、シリーズ終盤にSF的な〈ニュータイプ〉の物語になった。『新世紀エヴァンゲリオン』もシリーズ終盤に〈心〉の物語となる。3作品とも最初から〈愛〉や〈心〉をテーマとしてスタートしていたら、それほどの人気は得なかっただろう。
 戦争ものやロボットものという、刺激の強い、分かりやすい娯楽作品として始めて、途中で「愛が大事だ」「人類の革新」「自己と他者の関係」といった、ちょっと高級な(と思われる)テーマに切り替わる。そこに感動やショックが生まれる(『エヴァ』の場合は、当惑という言葉の方が相応しかったかもしれないが)。このテーマの切り替えが、この3作が人気作になった理由のひとつなのだろう。
 しかし、これは計算してできるものではない。3作の〈切り替え〉は、いずれも予定されたものではなかったと思われるからだ。『宇宙戦艦ヤマト』は全39話の予定で放映がスタートしたが、視聴率不振のために全26話となった。もし、最初の予定どおりに全39話が作られれば、古代が唐突に「愛だ」と言い出す事はなかったかもしれない。あのセリフは、少なくなった話数でテーマをまとめるために生まれたものではないか。『ガンダム』も最初の予定どおり、全52話が作られていたら、随分と印象が違ったものになっていだろう。『エヴァ』にしても制作スケジュールに余裕があれば、後に作られた劇場版のように、物語やアクションなどを通じて、同じテーマが語られていたはずだ。そうなった時に、TVシリーズのラスト2話の衝撃はなかっただろう。
 最初の予定どおりに制作する事ができず、えいや! と話をまとめようとしために、そういったインパクトのある〈切り替え〉が生まれたに違いない。もしも、他の作品がかたちだけをマネて、テーマの切り替えをやっても、空振りするだけだろう。力のあるスタッフが、本気で作った作品の中で、それをやったからこその感動であり、ショックなのだ。

 以下は、やや余談。今回の原稿を書いている途中で気がついたのだけれど、古代、アムロ、シンジが最後にたどり着いた結論は、いずれも人と人の関係にまつわるものだった。古代は「戦いではなく愛し合うべきだ」と言い、アムロは戦いの果てに帰れる場所、すなわたち自分に仲間達がいた事を喜び、シンジは自己と世界の関係を理解し、自分はここにいてもいいのだという事を悟る。「愛」「仲間がいる」「自分の存在意義」と、時代を経るごとに、結論がより個的な問題になってきているのも興味深い。
 

■第13回へ続く

(05.04.22)

 
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