アニメ様365日[小黒祐一郎]

第135回 「古代(おれ)とヤマト」

 「古代(おれ)とヤマト」は『宇宙戦艦ヤマト 完結編』の挿入歌だ。作詩は阿久悠、歌はささきいさお。ヤマトは自分にとって、兄なのか、父なのか、友なのかと問う。そのどれとしても大事な存在だ。だが、もう別れの時がきた。そういった内容の歌だ。曲名で「古代(おれ)」という表現を使っているのは、古代=ファンという意味を持たせたかったのだろう。
 『完結編』について奇妙に感じるのは、多くの登場人物がヤマトを大事にしており、ヤマトへの想いを口にする事だ。自分が乗ってきた船だし、何度も地球を救った船だ。愛着があるのが当然だろう。しかし、ちょっとやり過ぎに感じられる。沖田がヤマトを自沈させる事を発表した時に、乗組員が憤る。加藤四郎は「ヤマトを消滅させるなんて、それでもヤマトの艦長なんですか!」とまで言う。ヤマトを自沈させるのは、地球を救うためだ。それなのに加藤達は憤ってしまう。そんなにもヤマトが好きなのだ。その後で、彼らを説得するために、古代は「ヤマトにとっての幸せ」なんて言葉まで口にする(余談だが、『完結編』を観返すと、登場人物がヤマトにこだわり、ヤマトを語る様子は、まるで『新世紀エヴァンゲリオン』終盤のようだ)。
 『完結編』は、皆がヤマトに別れを告げるための映画だった。登場人物も、スタッフも、観客もヤマトに別れを告げる。こんなにヤマトが好きなのに、自分達はヤマトと別れなくてはいけない。そういった想いを描くのが目的だったのだろう。その意味では、筋が通った作品だ。前々回も触れたように、葬式のような映画だった。
 ただ、この映画が公開された時に、僕はもうそんなに『ヤマト』が好きではなかった。まだ『ヤマト』を大好きなファンはいたが、多くのファンの気持ちはすでに離れていたはずだ。前述の「古代(おれ)とヤマト」にしても、『さらば』の頃に聴いたら感動したかもしれないが、『完結編』公開時にはなんとも思わなかった。
 以下は、『完結編』からちょっと離れた話。ある時期、アニメファンの間で、『ヤマト』シリーズの評価が下がりきっていた。『完結編』公開時の頃にどん底になっていたのか、その少し後に下がりきったのかは覚えていない。一部のファンだけの事かもしれないが、『ヤマト』シリーズを嘲笑の対象にすらしていた。僕の周りでもそうだった。かつて『ヤマト』で泣いた事を恥だと感じ、忘れたいと思っていた。
 よく『ヤマト』について「一度完結したにも関わらず、続編を作り続けたために、人気が凋落した」と言われる。確かにそれも事実だが、個々の作品について、作りに弱いところがあった事や、スタッフと受け手の間に、気持ちのすれ違いがあったのも、その原因だろう。続編を作り続けても、それが『さらば』に匹敵するくらいの、見応えのあるエンターテインメントであれば、あれほど極端な急降下をする事もなかったと思う。
 僕が改めて『ヤマト』が好きだと思えるようになったのは、アニメ雑誌の仕事を始めてからだ。1988年に「TVアニメ25年史」「劇場アニメ70年史」の編集に参加して、自分のアニメ史を振り返ったのがきっかけのひとつだった。その前後に、CD化された「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」を聴いて、背筋がゾクゾクっとした。改めてTV第1シリーズを観直してみたら、篦棒に面白かった。半分は思春期に何度も観たことによる刷り込みなのだろうが、それだけではなかった。やはり、中身の濃い作品だと思った。僕にとっての2度目の『ヤマト』ブームがきた。「アニメージュ」のコラムで「やっぱり『宇宙戦艦ヤマト』はいいぞ!」と書いた(怖いので、その後、読み返してないけれど)。その後、LD BOXがリリースされ、それも買った。
 今では、一度『ヤマト』から気持ちが離れた事も思い出になっているし、いびつなところも含めて、ある程度は、個々の作品を客観的に観ることができる。『完結編』は歴代作品の中でも、一番いびつな作品だと思う。観客が『ヤマト』が好きである事を前提にして作られており、キャラクターとヤマトの関係を押し出し過ぎているからだ。狙いは分かるし、筋は通っている。気に入っている部分もあるのだが、1本の映画として楽しめるかというと、やはり、あまり楽しめはしない。

第136回へつづく

宇宙戦艦ヤマト 完結編

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(09.05.29)