アニメ様365日[小黒祐一郎]

第43回 『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』

 『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』は1980年3月15日に公開された。原作「火の鳥」は手塚治虫がライフワークとして描き続けていた作品であり、マンガ史に残る名作だ。先に市川崑がアニメ合成を使った実写映画を撮っており、それに続く2度目の映像化だった。原作、脚本(共同)、総監督を手塚治虫自身が担当。すでに発表された原作の映像化ではなく、映画のためのオリジナルストーリーだった。
 主人公のゴドーは、試験管ベビーとして生まれ、育児ロボットのオルガに育てられた青年。宇宙ハンターとなった彼は、謎の怪物コスモゾーン2772の捕獲を命じられるが、上司ロックの既婚者であるレナと恋仲になってしまった事から、労働キャンプに送られてしまう。そこで出逢ったサルタ博士に、地球の危機と、火の鳥の秘密について教えられた彼は、宇宙船スペース・シャークで、オルガと共に宇宙に旅立つのだった。
 この映画もロードショーで観ている。評判がいいとはいえない映画であるはずだし、僕も残念なところの多い作品だと思う。昔も今も、手塚治虫がマンガの神様である事は変わりはないし、日本のアニメに大きな足跡を残した事も間違いないのだが、アニメ作家としての手塚治虫はどうなんだろうかと疑問を持つきっかけになった作品である。それでも、初見時には真剣に観たし、ある程度は楽しんだ。ただ、最初に観た時にも「ちょっと古いタイプの映画だな」とは思った。当時流行っていた劇場アニメとは、まるでタイプが違う作品だった。物語の展開も遅く、ドラマも薄味だった。昔発表された巨匠の作品を観るような気分で観たと記憶している。
 僕も編集に参加した「劇場アニメ70年史」(徳間書店)の本作の解説には、「総監督の手塚治虫の意向もあって海外向けに物語を単純化し、原作漫画からの大幅なイメージチェンジが行われた(略)」とある。「海外向けに物語を単純化」という記述が、どのようなソースに基づいて書かれたものであるのかは不明で、事実かどうかは分からないが、確かに原作「火の鳥」の各作品よりも単純化された物語だったと思う。「劇場アニメ70年史」は20年前の出版物で、これが誰が書いた原稿か覚えていない。もしも、僕が書いたものだったら、スイマセン。それから、単純化しただけでなく、話に関してはあまり練らずに進めてしまったところもあるのだろうと思う。
 それから、この映画に関しては、物語とアニメーションとしてのスタイルを分けて考える事はできない。先にやりたいスタイルがあり、それに合わせて物語が構築されたのだろうと思う。冒頭は、火の鳥が飛ぶ姿を描いたイメージシーン。その後、タイトルを挟んで、赤ん坊のゴドーが青年に成長するまでの十数年間を映像と音楽だけで描写し、次に、エアカーでゴドーとオルガが科学センターに向かう様子を延々1カットの背景動画で表現している。ここまでが11分強で、この一連のシーンではセリフがひとつもない。キャラクターが最初のセリフを発するまでに11分強の時間かかっているのだ。野心的な始まり方だ。特にゴドーの成長を描くシークエンスは、格調高いクラシック音楽の力もあって、上品な仕上がりで好印象だった。そのシークエンスは、好印象ではあったが「ちょっと古いタイプの映画だな」とも思った理由のひとつでもあった。
 また、3人のコミカルな宇宙人が登場する。掃除好きのピンチョ、身体がサイコロになってるクラック、言葉は喋れないが全身にある突起物から音を出すプークス(ヒゲオヤジにはバグパイプ人間と呼ばれた)だ。手塚治虫は、この3人の宇宙人について、ディズニーの『白雪姫』に登場する小人をモデルにしたと発言している。確かに宇宙SFよりは、ディズニーの長編に出てきそうなキャラクターだ。彼らが楽器を演奏をするミュージカル仕立てのシーンがあり、そういったところはあまりに子供向きであり、高校生の僕には退屈だった。この映画のメインストーリーはどちらかと言えば深刻なものであり、全体からするとこの宇宙人の存在はチクハグなものになっていると思う。
 それから、僕にとってこれが大事な点なのだが、この映画は公開前からフルアニメで作られる事が公表されていた。今当時の記事やパンフレットを読み返すと、フルアニメである事は、意外なくらい強調されていない。むしろ、技術面でのトピックスとなっているのは、ロトスコープ、スリットスキャン、実写との合成、キャラクターごとに作画担当者を決めるキャラクターシステムだ(フルアニメである事と別に、それだけ技術的な新機軸を盛り込もうとした作品なのだ)。もっとはっきりと「フルアニメで作るぞ」と宣言した記事があったと記憶しているのだが、それは僕の勘違いだったのかもしれない。フルアニメの定義はいくつもあるのだが、この場合は、仮にオール2コマ、1コマで動いているアニメーションとして話を進める。
 とにかく、僕はロードショーで観る前に、フルアニメで作られているらしい事は知っていたし、それがどんかなものなのかを楽しみにして劇場に行ったはずだ。前回紹介したように、手塚治虫は当時の主流のアニメに対して批判的だった。それに対して、彼が作品を通じて回答をするかたちになったわけだ。映画冒頭でセリフのないシーンを続けたのは「セリフだけでドラマが進むようなアニメ」に対する反発でもあったのだろう。
 実際に作品を観ての、僕の技術面についての感想は「これがフルアニメなの?」というものだった。例えば、前述した冒頭の背景動画は、アニメートもしっかりしており感心した。他にも枚数を使って動かしているところはあるのだが、むしろ、TVアニメ的な部分が多いのだ。今観返すと、カットの割り方がTVアニメ的だ。そもそも、たっぷり枚数を使うようなかたちにカットが構築されていないのだ。1980年に発売された「奇想天外《別冊》 No.11 SFアニメ大全集」(奇想天外社)に手塚治虫と小野耕世の対談が掲載されており、そこでこの作品のフルアニメについて言及されている。以下に一部引用する。

—— そうですか。フルアニメとか、そういう意味でのかねあいではどうですか。
手塚 まあ、フルアニメですよ。一応ね。バクシ・スタイル・フルアニメ。
—— ああ、なるほどね。
手塚 もう「ディズニー」みたいなばかばかしいことはやめました。「メタモルフォーゼ」だってフルアニメでしょ。それに「指輪物語」もそうでしょ。そういうのがみんな失敗しているのは、なめるように動いているからだと思うんだよね。今度の場合は、止めるところは止めちゃって、ひどいのになると本当に止めなんですよ。

 対談はこの後、『フリッツ・ザ・キャット』等のタイトルを出して、しばらくフルアニメについて語っている。ディズニーの信奉者である手塚治虫が、デイズニーの作品について「ばかばかしいこと」と言い放っているのは少々ショックだが、それは勢いで出てしまった発言だと考えたい。「ばかばかしいこと」とは「馬鹿馬鹿しいくらい手間がかかる事」の意味なのだろう。最初はディズニーのようなゴージャスなフルアニメにしようとしたが、それはあきらめたのではないかと推測できる。
 また、マニアックなファンが本作を語る上で、よく話題にするのが「ブレる止め絵」である。通常の演出ならば止め絵になるカットを、あるいは動きが少ないカットをフルアニメにしようとして、同じ画を何度かトレスし、撮影しているのだ。先ほどの発言にもあるように、止めているところもあるのだが、やはりフルアニメである以上は、止めを使わずに常に動いているべきだと考えて、そういった表現にしてしまった箇所もあるという事だろう。さきほどの対談で「ブレる止め絵」についても触れている。それも引用しよう。

手塚 (略)ただ、みて、やはりフルだなあという感じはしますね。そのフルが逆効果なところがありますよ。
—— そうですか。
手塚 つまり、止まったところまで、フルにしちゃったために、身体がブルブルふるえているんですよ。そのふるえ方も、うまくふるわせればいいんだけど、二枚か三枚でくりかえしてやっているところがあって、それがもうワーっとふるえるんですよ。つまりハンドトレスでしょ。だからゆがむんですね。線が。

 たとえ、うまく震わせることができたとしても、それに何の意味があるのだろうかと思うし、それはフルアニメではないだろうとも思う。ただ、手塚治虫自身も、やはりあの描写は成功だとは思っていなかったのだ。「SFアニメ大全集」を読み返して、この記述を読んで、ちょっとホッとした。

第44回へつづく

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(09.01.13)