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アニメの作画を語ろう
animator interview
山下将仁(1)


 『鉄人28号[新]』や『うる星やつら』での彼の仕事はダイナミックかつパワフル。そのインパクトは凄まじいものだった。1980年代前半、若手アニメーターの過剰な仕事ぶりが「暴走」と呼ばれたが、彼こそがその暴走アニメーターの筆頭であった。作画にあまり興味のないアニメファンでも「『うる星』で個性的なアクションを描いた人」と言われれば、「ああ、あの人か」と思いあたるだろう。
 系統としては金田伊功の流れをくむアニメーターの1人であり、その初期の作画スタイルは、デフォルメやタイミングを本家の金田作画よりも極端にしたものだ。より濃密な「金田アニメ」と呼ぶ事もできる。流れるようなアウトライン、たっぷりとしたボリューム、アクの強さなど、彼自身のオリジナル部分も魅力的だ。
 ファンとしては、そんな1980年代の暴走アニメーター時代の仕事が印象的だが、彼自身の作風は大きく変遷している。近年の彼が描く原画は、比較的スタンダードなものとなっているようだ。一度はハワイに渡り、CG映画『FINAL FANTASY』の制作に参加したが、現在はアニメ界に戻り、再びアニメーターとして活動している。
 間違いなくアクション作画を語る上で忘れてはいけない人物だが、今までその仕事が本人によって語られる事はほとんどなかった。初期の作品について、あるいは作画スタイルの変化など、彼に聞きたい事は山ほどある。


2004年1月10日
取材場所/東京・三鷹
取材・構成/小黒祐一郎
PROFILE

山下将仁(YAMASHITA MASAHITO)

1961年12月27日生まれ。北海道出身。アニメーター。高校卒業後、スタジオNo.1でアニメーターとして活動を始める。18歳の時に『鉄人28号[新]』で原画デビューし、『六神合体ゴッドマーズ』『うる星やつら』等に参加。フリーの作画集団であるスタジオOZ(スタジオとめ)、スタジオワンパターン、スタジオのんまるとへ。1998年にスクウェア(現スクウェア・エニックス)のスタッフとしてハワイに渡り、劇場『FINAL FANTASY』に参加、帰国後もしばらくスクウェアに籍をおく。現在フリー。他の代表作はOVA『DALLOS』、OVA『BIRTH』、OVA『メガゾーン23』(原画)、OVA『破邪大星 彈劾凰』(OP原画)、劇場『SPRIGGAN』(メカニック作画監督)等。最近の仕事に劇場『DEAD LEAVES』、劇場『INNOCENCE』への原画としての参加がある。

【主要作品リスト】

小黒 山下さんの作品リストをざっと作ってみました。まだ足りないと思うんですけど。
山下 随分、忘れちゃってますよ。『レスラー軍団(〈銀河編〉 聖戦士ロビンJr.)』って、やったかなあ。全然記憶にないなあ。『(宇宙の騎士)テッカマンブレード』もやったかな(笑)。
小黒 お名前は出てますよ。確か佐野(浩敏)さんが作画監督の回で。
山下 ああ、そうか。言われてみれば、やったような記憶もありますね。で、今日は、どういうかたちのお話をすれば。
小黒 僕達の意識の中で、山下さんのお仕事はかなり大きいんですよ。ですが、山下さんに関して僕達は知らない事が多いんです。例えば、いつまで(スタジオ)No.1にいらしたかとか。あるいは仕事ぶりも変遷してますよね。
山下 ええ。
小黒 そういった部分の話をうかがいたいんですが。
山下 No.1にいたのは、大体『(六神合体)ゴッドマーズ』の時期ぐらいまででしょうかね。『ゴッドマーズ』や『うる星やつら』をやっている頃にNo.1を辞めちゃったんですよね。
小黒 『ゴッドマーズ』への参加は少ないですよね。
山下 そうですね。『ゴッドマーズ』は仕事のノリがちょっと肌に合わなくて(苦笑)。『鉄人(28号[新])』の頃は4人ぐらいの原画さんで、大体4分の1ぐらいずつ原画を担当していたんです。そのやり方は凄くやりやすかったんですけど。『ゴッドマーズ』はとにかくスケジュールがなくて。それに線が(前番組の『鉄人28号』から)急激に増えたじゃないですか(笑)。だから、ちょっとやりにくかったんですよね。当時は、自分が担当したところを一連の流れとして見たいという意識が凄く強かったような気がしますね。それで(作品全体として)バンクとか使い回しみたいなカットが多いのも、あんまり好きじゃなくて。何本かやってるんですけど。
小黒 山下さんの『ゴッドマーズ』だと、バレンが登場する回が有名ですよね。バキュームと戦う話(10話「宇宙から来た少女!」)。
山下 ああ、あのモグラみたいなやつですね。
小黒 そうです。タケルがパンダのぬいぐるみを投げる話です。
山下 『うる星やつら』はこっちから押井(守)さんのところに画を持って行って「やらせてくれ」と言ったんです。その時は、まだNo.1だったんですけど、2人で『うる星やつら』の原画をやる事になって。
小黒 越智(一裕)さんと2人で、という事ですよね。
山下 ええ。でも、越智君は『うる星やつら』を先に降りちゃったんですよね。その後、越智君は『ゴッドマーズ』に力を入れて、僕は『うる星』をずっとやって。そうやって(一緒に仕事をしてきた彼と)別れたんだと思います。その頃ですよ、No.1を辞めちゃったのは。
小黒 その後の山下さんのご所属は、スタジオOZとか、スタジオとめとか、色々とあるみたいで、そのあたりの事も気になるんですが。
山下 最初はスタジオOZですね。OZという名前のスタジオは他になかったはずなんですけど、仕上の会社がOZという名前を付けちゃって。よく間違い電話がかかってきたんですよ。その度に「いや、こちらは作画のスタジオです」という感じで対応して。それが面倒くさかったので、名前を変えようという事になって。それで、誰だか分かりませんが「とめ」とか言い出して(笑)。そのまましばらく続いていたんですけど、解散する事になって、何名かを集めてワンパターンというのを作ったんですね。
小黒 ワンパターンを名乗ったのは、いつ頃からなんですか。
山下 いつぐらいからでしたかねえ。『よろしく メカドック』とか、『(ビデオ戦士)レザリオン』とか、TVの『ルパン三世(PARTIII)』とか。そこらへんですね。
小黒 OZと、とめは名前は違っていますが、同じ組織なんですね。
山下 同じですね。
小黒 会社だったんですか。それともチームだったんですか。
山下 会社じゃありません。フリーの集まりですね。
小黒 そこはどなたがいらしたんですか。
山下 そこには岸(義之)さんという『天才バカボン』(「平成」および「レレレの」)のキャラクターを作った方と。それから、古川(こかわ)さんていう方がいたんです。あと上妻(晋作)さんがいましたね。それともう1人原画マンの方がいたんです。大体5人ですね。それが解散したあと、僕と上妻さんが中心になってワンパターンを作って、岸さんや古川さんとは別々になったわけです。それから、今は演出をやってる新房(昭之)君がいました。
小黒 そうなんですか!?(驚)
山下 ええ、いましたね。あと、途中で佐野君が入ってきましたね。それがワンパターンのメンバーですね。
小黒 新房さんはOZ、とめ時代にはいないんですね。
山下 えーと、ちょっとまってください……(考えて)……いないですね。
小黒 当時の新房さんはアニメーターなんですか。
山下 ええ、アニメーターです。『遊★戯★王』を描いている漫画家の高橋(和希)っていますよね。新房君は、彼と一緒によく遊びにきていて。
小黒 その2人が友達だったんですね。ファンとして遊びにきていたんですか。
山下 ええ。「じゃあ、ウチに入んなよ」というかたちで一緒にやる事になったんですよ。
小黒 じゃあ、とめ時代に遊びにきていたんじゃないですか。
山下 そうですね。あの当時はいろんな人が出入りしていましたから。………ああ、そうか。やっぱり新房君は、とめ時代にいたかもしれない。
小黒 いましたか。
山下 いました。すみません。
小黒 いえいえ。ワンパターンはいつぐらいまであるんですか。
山下 ワンパターンは、そんなに長くはなかったですね。僕も行き詰まってた時期で、仕事の上がりもよくなくて、組織として上手くいかなかったんですよね。それで結局、自然消滅というかたちになりました。
小黒 その後、フリーになられたわけですか。
山下 そうです。プラプラしてる時、金田さんが「じゃあ、一回戻ってくれば」と声をかけてくれて。No.1ではないんですけど、(スタジオ)のんまるとっていうスタジオに何年か在籍して、そこで仕事をやってましたね。
小黒 『FINAL FANTASY』でハワイに行かれる直前まで、のんまると所属なんですか。
山下 そうですね。それまでずっとのんまるとですね。
小黒 いつぐらいからでしょう。
山下 のんまるとでは『(緊急発進)セイバーキッズ』はやったなあ。『83(機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY)』をやった時も、所属はのんまるとですね。作業はサンライズでやってましたけど。『モルダイバー』もそうなのかなあ。『幽★遊★白書』もそうです。大体そこらへんですよね。
小黒 なるほど。
山下 (リストを指して)これ順番になってますよね。
小黒 ええ。おおむね。
山下 『御先祖様万々歳!』も、のんまるとだな。この、やった覚えのない『レスラー軍団』の辺りが怪しいですね。ここら辺でのんまるとに移っているんじゃないかな。
小黒 のんまるとは、金田さんが中心のスタジオだったんですね。
山下 そうですね。金田さんと、鍋島さん、飯島(正勝)さん、それと越智君。野田(卓雄)さんが抜けただけで、No.1のメンバーがほぼ揃いましたからね。
小黒 黒沢(守)さんも、のんまるとにいらしたんですよね。
山下 そうですね。黒沢君が後で入ってきたのか、最初からいたのかは記憶が定かではないですが。あそこって、もともとSTUDIO4゜Cがあった場所だったんで。
小黒 そう言えば、のんまるとは4゜Cが引っ越しした後に入ったんでしたっけ。
山下 そうです。その時、(STUDIO4゜Cにいた)黒沢君が残って、のんまるとに入ったのかもしれない。間違ってるかもしれないですけど(苦笑)。
小黒 その後、ハワイに行かれたわけですね。いつまでスクウェアの所属だったんですか。
山下 1999年の8月ぐらいにハワイから日本に戻ってきて、その後2年ぐらいスクウェアにいたんですよ。『サイボーグ009(THE CYBORG SOLDIER)』や『RAhXePhON』をやった時にはもう辞めていますね。
小黒 映画の『FINAL FANTASY』は、完成まで関わっていらっしゃったんですか。
山下 そうではないですね。途中で帰ってきました。映画の方は、絵コンテが主な仕事だったんですよ。(制作の後半は)絵コンテ班は仕事がほとんどなかった。ハワイに残ってもいいという空気はあったんですけど、帰りたかったんです。(制作の)状況がよくなくて、仕事がなかなか上手くいかなかったんですよ。それで、ハワイにいる時に「スクウェアを辞めさせてもらいます」と言ったんです。そうしたら「まあ、待て待て」という感じで「本社でゲームの仕事があるんだけど、それをやらないか」と言われて、「そういう話があるなら、ゲームの方も興味があるんで、やります」と。それでやったのが「FINAL FANTASY X」ですか。「FINAL FANTASY」ってゲームをやられた事あります?
小黒 ええ。
山下 あれって召喚獣がでてくるじゃないですか、あれは僕がコンテを描いてるんです。そういう仕事をやってたんですよ。そのあと、インターネットゲームの「FFXI」のモーションづけ。キャラクターを選ぶ時に、その紹介があって、キャラクターが動いて自己アピールす るんです。そのモーションづけをやって。その仕事が終わって辞めたんですね。
小黒 改めて昔の事からうかがわせてください。もはや伝説的な話になっているんですが、山下さんは10代で原画マンになった事がよく話題になりますよね。その頃のお話から始めてよろしいでしょうか。
山下 はい。
小黒 そもそも、アニメーターになろうと思ったきっかけはなんだったんですか。
山下 そうですね、子供の頃は『ウルトラマン』とか『仮面ライダー』とかが好きだったんです。だけど、中学生ぐらいになると、そういうものがお子様向けの番組に思えて、気持ちが醒めてくるじゃないですか。だから一時、ばかばかしくなって観なくなって。それよりも戦車のプラモデルとかを作っていた方が楽しい時期があったんです。だけど、友達が「この前の話の作画監督の画は違うな」とか言い出したんですよ(笑)。なんの事だろうなと思って聞いていると、「作画監督によって画が違うんだよ」というような話なんですよ。妙に専門的な話で、(アニメに)子供じみていない部分があると知って、非常に興味を持ったんですよね。だから、ちょっと観てみようと思ったんです。友達が「来週の作画は小松原(一男)さんだからカッコイイ」と言っているのを聞いて、「本当に巧いのかな?」と思って観るわけですよね。すると、やっぱり「ああ違うな、言ってるとおりだな」って事になるんです。そうなると、毎週楽しみになってくるわけですよ。ストーリーとかじゃなくて、画に興味を持ち出すわけですよね。それで、予告を見て、次週の作監が当てられるぐらいに目が肥え始めていくんです。若いですから、吸収が速いんですよ。作画について興味をもつようになって、その中で当然、野田さんとか金田さんの名前も出てくるわけです。それで「動きが違う」という事に気がついて、アニメーションが、作品として観るためのものじゃなくて、動きを観るために存在するためのものみたいになっちゃって(笑)。非常にマニアックな見方になっていくわけですよね。だから、ほとんど友達の影響なんですよね。金田さんとかが、どんどん好きになってのめり込んでいくわけです。で、やっぱり自分でも描いてみるじゃないですか。だから当時は教科書の四隅に……。
小黒 ああ、やっぱりやったんですね(笑)。
山下 パラパラマンガを描きだすわけですよ。爆発がカッコイイとか、光線がカッコイイとか思って、自分でも光線を描くわけですよね。で、当時まだビデオとかない時期だったから、目を凝らして観て。「なんであんなにカッコイイんだろう…… あ! 動きの中にこういう1コマが入ってる!」とか。それで劇場にカメラを持って行って、露出を最大限にするんだったかな、そうやって(スクリーンを)撮って、黒ベタの、なんかスパークみたいな画を見つけて、「お! 凄い画が1枚写ってる」なんて(笑)。
小黒 黒地にスパークだけが入っている画ですね。
山下 「これは凄い」と思いましたよ。当時は(アニメが)ビックリ箱だったわけですよ。それは今では当たり前のテクニックで、皆さん、普通に知ってる感じですけど。当時はビデオがないものですから、コマ送りできないわけですよね。それを発見していくのにワクワク、ドキドキして。とにかくいろんな作画監督の方とか原画さんとかの仕事を観ながらも、やっぱりその中の野田さんや金田さんからの影響を大いに受けてしまったわけですよ。
小黒 なるほど。
山下 特に面白いじゃないですか、金田さんの作画っていろんなものが入ってるわけじゃないですか。間に特殊な画が(笑)。自分でも試行錯誤しながら、画を描いたり、パラパラマンガをやったり。紙を買ってきて、原画もどきのものを作って遊んでたんですよね。
小黒 それが中学ぐらいの頃ですか。
山下 中学から始まりましたね。作画について興味を持ち出して。高校生になると、友達とアニメーションを作ろうという感じになりましたけれどね。結局、作品なんてとても自分達では作れませんでしたが。ビデオも普及し始めてきて、友達がビデオを買って「金田さんのやつを録画したけど観にこない」と誘われて、観に行ったりしたりして。ウチでもビデオを購入して、やはり録画してよく観ていました。だから、高校生の時は、もうアニメーターになりたくて、なりたくて。アニメーターになるにはとにかく東京に行かなくちゃいけないんですけど、雑誌か何かにスタジオZの事が載っていたんですよ(編注:スタジオZは、No.1の前に金田伊功達が所属していたスタジオ)。「ここに行こう」と思ったんですけど、すでに引っ越した後だったわけですよ。だから連絡も取れないし、画を見てもらうわけにもいかない。じゃあ、オープロ(ダクション)へ行こうと思ったんです。オープロなら、小松原さんとか友永(和秀)さんとかいるし。それで画を持って、オープロに行ったわけですけど。
小黒 それが高校の時ですか。
山下 そうですね。まだ在学中です。就職活動というかたちで休みを利用して、東京に行ったんです。それで、オープロに行ったら、ちょうど友永さんがいたんですよ。で、友永さんに画を見せたら「これは金田君のところに行った方がいいよ」と言って、その場ですぐ電話してくれて(笑)。
小黒 (笑)。
山下 「ああそうか」という感じで。やっぱり望んでると、そこにいくのかなあ、という。
小黒 その段階でもう、そういう画だったんですか。
山下 そういう画でしたね(笑)。その時、保谷にもうスタジオNo.1ができていたんです。その場で画を見てもらうために行ったわけですよね。そこに野田さんとか金田さん達がいて、「じゃあ、卒業したらおいでよ」という話になって、卒業して即、No.1に入ったわけです。それが高校卒業後ですから、18歳。
小黒 卒業なさってるんですね。当時、確か「アニメージュ」で山下さんが19歳だと書かれている記事があって、「何歳からアニメーターをやっているんだろう?」と不思議に思っていたんです。
山下 ああ、僕は12月生まれですからね。
小黒 なるほど、卒業した年の12月まで18歳なんですね。
山下 ええ。その間の半年ぐらいですかね、動画をやって。いやあ、動画は評判悪かったんですよ、勝手に動きを作るって。当時、長崎(重信)さんが原画を描いたカットの動画を、よくやってたんですけど、あんまりいい顔されなくて。「早く原画にしちゃった方がいいんじゃないの、この人」という空気があったみたいですね(笑)。
小黒 動画をやられた作品は、例えばなんだったんですか。
山下 『(ずっこけナイト)ドンデラマンチャ』とか『ムーの白鯨』とか。それから野田さんの仕事だと、やっぱり……。
小黒 『(円卓の騎士物語)燃えろアーサー』ですか。
山下 『燃えろアーサー』ですね。あそこらへんの動画をやってましたね。それで『鉄人』をやる事になって、鍋島さんが「ちょっと遊びで原画やらないか」って僕に(カットを)出してくれたんですよ。あの時は越智君にも出したのかな。とにかく「10カットぐらいやってみない」というかたちで。ひどいもんでしたね、初原画は(笑)。
小黒 いえいえ。
山下 なんかガタガタしちゃって(苦笑)。
小黒 あれですよね。敵の手に墜ちた鉄人が暴れて、正太郎達が逃げていくところですよね(第7話「死を呼ぶ人工衛星」)。
山下 どうだったですかね。確か列車が走ってたような……。
小黒 え! あ、あっちなんだ、3話ですね!(第3話「暴走特急をとめろ!」は複数の作画スタジオが参加したエピソード)
山下 3話ですね。
小黒 3話もおやりなんですね。鉄人が新幹線を止める話だ。
山下 それで(敵が)空から落ちていくところをやったんですけど。なんか「こりゃまずい」という感じで(笑)。でも、めげずに次も原画を出してくれましたからね。
小黒 それで、7話をやるんですね。金田さんも原画描いてる回。
山下 ああ、そうですね。
小黒 3話で最後にロボットがやられる時に、敵のボスがコックピットで、こういう(と、肘を張って、拳を顔の前で合わせるポーズをとる)、友永さんの作画みたいなポーズとるんです。ちょっと緻密で、かなりイイ感じなんですが、それは他の方の原画ですか。
山下 ちょっと記憶にないですね。自分が描いたのが、よくなかったというのだけは記憶に残ってるんですけど(笑)。
小黒 でも、3話でも鉄人自体をお描きになったんですよね。
山下 ええ。殴って敵を倒すあたりですね。
小黒 それです。そこをお描きなら、さっき言った敵のボスのポーズも描いてるんじゃないですか。
山下 いや、観返してみないとわからないです(苦笑)。3話をやって「これはやっぱり原画は難しいな」と思ったんです。とにかくタイミングが特にひどかったんで。でも、次がきたらまた頑張ろうと思ったんですよ。次はどんな話だったかなあ。
小黒 人工衛星を落とそうとしている悪人がいて、鉄人がその敵の手に渡ってしまって。それで正太郎達が鉄人に追われるんですよ。鉄人が木を振り回したりして。
山下 ああ、そうだそうだ。
小黒 それで、ヘリコプターに乗っていたパイロットと正太郎達が逃げていくところをお描きになったんですよ。
山下 そうですね。でも、あれが最初じゃないんですよね。
小黒 あれが2度目なんですね。
山下 2度目なんです。あれも失敗したと思ったんですけど、最初にやったやつよりは上手くいったな、そんな感じはしましたね。これだったら、なんとかやっていけるかなって思いました。その時は何歳だったかは憶えてないですけど、19歳ぐらいの時なんでしょうかね。

●「animator interview 山下将仁(2)」へ続く

(04.03.19)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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